「平和の君の出現」

2020年11/29 第一待降節礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 

音声メッセージです。

 

メッセージ動画はこちらからご覧いただけます。

 

【聖書】イザヤ書 第2章1~5節
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1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
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2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
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3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を 進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
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4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
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5 ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。

 

メッセージ概要

 今日は教会のカレンダーでいうなら、アドベント待降節 の第一の日曜日です。そして第四週、今年は 12 月 20 日がクリスマス礼拝となります。今は、救い主の誕生を待ち望むときです。
 クリスマスは不思議な日です。なぜならほとんど全世界でお祝いされているからです。日本でもクリスマスは一般的です。仏教の家庭でもお祝いしています。しかし、クリスマスの本質は何か、知っている人は少ないだろうと思います。

1,終わりの日の預言
 2 節に「終わりの日」と言う言葉が出てきます。それはこの世の終わりを意味しています。そしてもう一つは、救い主が来られることをも意味しています。キリストの再臨です。その日が 4 節にある「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。」と言うことです。私たちもその時、生きているなら、そのことを体験するでしょう。使徒パウロはその前に、地上から引き上げられたい、空中で主イエスにお会いしたいと願っていました。私たちもそうでありたいと願うのではないでしょうか。
 キリストの再臨というのは、二度目にこられるということです。初臨 はいつか。約 2000 年前のクリスマスです。この世に人の子としてキリストがお生まれになった、それが初臨と言うことになるのです。しかしキリストを「救い主として受け入れる」ことは容易なことではありませんでした。今もそうですが…。キリストは苦難の中でお生まれになったのです。それは私たちの苦しみを知るため、人の苦しみを味わうための始まりだったのです。
 そして、それよりも 750 年ほど前に預言者イザヤは救い主の出現を預言したのです。イザヤ書にはいくつかのメシア預言と言われる箇所がありますが、この箇所もその一つです。終わ りの日に再臨のキリストが来られる、そしてキリストが全ての者を裁かれるのです。

2,平和の君
 メシアはイザヤ書 9 章 6 節をみるなら「平和の君」と唱えられることが記されてあります。キリストは平和の君です。人類の歴史は争い、戦いの歴史だと言われますが、本当にそうだと思います。国と国が争うこともあれば、人が人と争うことがある。自分の住んでいる周りやあるいは職場でも戦いがあるでしょう。今は、まさにコロナとの戦いと言えるかもしれません。なかなかゴールが見えない、収束が見えていない。そこに不安があるのと思います。だれがこ れを納めてくれるのだろか。ですから聖書は、平和をもたらす君、救い主のことを語っているのです。 4 節には「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。もう戦うことを学ばない」と平和の姿が歌われていますが、必ずその時は来るのです。黙示録には「千年王国」のことが記されています。キリストは再臨され千年間平和な時代が来ます。そしてエルサレムが神の都として栄えるのです。それがいつの時かはだれも分かりません。

3,光の内を歩む
 3 節に「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」とありますが、ミカ 4:1 5 にも同じ言葉が出てきます。ひょっとす れば当時の人たちが神殿礼拝に詣でるときに歌っていた歌かもそれません。詩篇には「都もうで」の歌がたくさんあります。ヤコブという人の名が出てきます。彼は父や兄をだまし、家督を奪おうとしました。しかし事が発覚し、逃げていったのです。途中、天からのハシゴの幻を見、「神の家」だと言ったのです。エルサレムの中心は神殿です。しかし人々は「ヤコブの神の家」と言っています。そこに平安があり心安らぐ所ではないかと思います。教会もまたそうあるべきです。この世から隔世され、神の平安の中にある、そのようでありたいと願うものです。
 それはどのように実現できるのでしょうか。それは 5 節にあります。「ヤコブの家よ、私たちも主の光のうちを歩もう」と言うことです。キリストが世の光です。キリストの内に生きるなら、私たちは闇の中を歩むのではなくいのちの光をもって生きることができるのです (ヨハネ 8:12) 。