2021年5/2 第一主日礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】マタイの福音書 第18章1~5節
- :1
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
:2
イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
:3
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
:4
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
:5
また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
メッセージ概要
5月5日は子どもの日です。どの親も、子どもの成長を願わない者はいないと思います。成長し立派な大人になることを願っています。しかしイエス様はあえて、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と言われたのです。
1,この世での評価
1 節に「そのとき」と出ていますが、17 章の終わりには税金の話が出ています。
王の子どもは 、 王に払う必要がないのです。しかしイエス様はつまずかせないために、ペテロに魚を釣り銀貨が出てきたら納めなさいと言われました。
そこで弟子たちが、天国ではだれが一番偉いのですかと尋ねたのです。それはまさに、この世的な考え方です。「一番偉い」そのことを私たちは求めますし、一般的な評価です。それでは 、天国もこの世と同じように評価されるのでしょうか。一番 良いことをした人が褒められて、出来なければだめでしょうか。
そうではありません。神様の評価は人と比較したり、業績で評価されるのではないのです。パウロは「善かつ忠なる者よ、よくやった」と言われ、「義の冠が私を待っているばかりだ」と証ししました。神様の評価は、人と比べた評価でもなければ 、 この世で どれだけ素晴らしい事をしたかという評価ではないのです。
神様は、1 番になることを求めてはおられません。また人よりも良いことをすることも求めてはおられないのです。
先ほどの神殿税、宮の納入金は 、もともと神様に罪赦されたことの感謝として献げるものであったのです。ところがそれはいつの間にか 、 税といわれる義務となってしまったのです。
私たちの信仰も義務化すると 、 しんどいものです。むしろ「自分は罪赦された、感謝してお献げします」というのが本来の神様に献げるものであると思います。私たちは今日、教会で献金をしますが、それは義務ではなく、喜びと感謝をもって神様にお献げさせていただきたいものです。
2,向きを変えて幼子のようになる
私たちはこの世だけを見れば、この世のことに頭は支配されます。イエス様は「向きを変えなさい」といわれました。この世のことだけを見るのではなく、天の御国すなわち唯一の神を仰ぎ見ること、そして幼子のように自分を低くして謙遜な者、神の前にへりくだった者になりなさいといわれたのです。
子どもは力がありません。親に頼ります。そのように 、 私たちも神に頼る。神様にすがりつき、従ってゆく者でなければ天国に入れないのです。
「もう自分は信じたから、信仰は卒業…」では天国に入れないのです。聖書にダビデという王様が出てきますが、彼ほど神に依り頼んだ王様はいないと思います。その信仰によって彼は祝福されました。幸せになれたのです。ですから私たちも、自分を低くする謙遜な者となり、神様にすべてを明け渡して従ってゆくなら神様が必ず私たちを幸いな者として下さいます。
3,キリストにあって受け入れる
子どもは純真なところもありますが、時にはわがままで、強情、言うことを聞かない面があります。またそのような大人もいます。しかしイエス様は「わたし の名のゆえに受け入れる」と言われました。自分に反対する人であっても、イエス様が受け入れることを望んでおられるなら、信仰によって受け入れる事です。なぜなら祝福を与えて下さるのは、人ではなく神様です。
天の御国の王は神であり、イエス・キリストです。「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」 (マタイ 10:42) と言われました。
この世は競争社会ですが、私たちの信仰は「天の神様が見ておられる、そしてこの方が私に報いて下さる。」そのことを覚えて、神様が喜ばれることを行 い、神の御国を待ち望み、神の愛と喜びに満たされる者とさせていただきましょう。