「御前に祈る」

2021年8/8 第二主日礼拝
ー西本耕一牧師ー

 


音声メッセージです。

 

メッセージ動画はこちらからご覧いただけます。

聖書】 エペソ人への手紙 第3章 14~16節
:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

メッセージ概要

 教会とはいったい何でしょうか。パウロは、エペソの手紙を通して神の奥義である教会について私たちに詳しく教えています。今日は祈りについて見ます。

1,祈りの姿勢
 パウロは 14節で「膝をかがめて」と言っています。これは祈りの姿勢です。祈りに姿勢が必要なのか、どんなスタイルで祈っても良いのではないかと思いますが、ここでは「膝をかがめて」と改めて言っています。そこには大切な意味があります。祈りには聖書で3種類のスタイルがあります。一つは立って祈ることです。そして、座して祈る。三つ目には、膝をかがめて祈る祈りです。膝をかがめることは、神を畏れてひれ伏すことであり、最も謙遜な祈りの姿勢です。

 彼が膝をかがめて祈った場所は、荘厳な神殿でもなければ整えられた礼拝所でもなかったはずです。おそらくは劣悪な牢獄の中で、尋問と裁きを待つ、普通では考えられないような場所で、彼は膝をかがめて祈っていたのです。

 かつてバックストン先生が同志社に招かれたとき、礼拝堂の泥で汚れた講壇にひざまずき、祈りをもって立ち上がられたときに顔は輝き栄光に満ちてメッセージを取り次がれ、聞いていた学生たちは心打たれ、数人の学生がそのまま島根の赤山に行ったという逸話があります。
たとえ牢獄の中であろうと、劣悪な中にでも膝をかがめて祈るとき、そのところに全能の神は共におられ、私たちの祈りを受け入れてくださるのです。


2,御父に祈る

 私たちは誰に祈るのか?それは全能の主なる神様です。しかしパウロは「御父」と言っています。イエス様が弟子たちからどう祈ったらよいのですかと尋ねられたとき、主の祈りを教えられました。

 最初は「天にまします我らの父よ」と祈ります。私たちは、父なる神様に祈るのです。イエス様も、「アバ、父よ」と祈られました。アバとは、お父ちゃんという意味です。幼子が気兼ねなく、父親に呼びかける言葉です。ですから私たちも遠慮なく大胆に率直に、神様に祈り求めるべきです。

 祈りの一つの目的は神との交わりです。特に座する祈りは、交わりの意味が強いのです。おそらく、パウロは牢獄の中で、神と交わり、劣悪な中でも神の大いなる栄光と豊かな恵みに与り、心は喜びに満ち、賛美に溢れて神を誉めたたえ、感謝をもって祈ったことであろうと思います。

 私たちはコロナ禍にあって、互いに交わることは制限されていますが、神との交わりは無制限です。そして神からの無尽蔵の恵みを与えていただいて、心が満たされることが可能です。ですから彼は神の奥義 信仰をエペソのクリスチャンたち、ひいては私たちにも伝えたかったのです。ですから私たちも 、一人になってパウロの様に膝をかがめ 、イエス様のように「アバ、父よ」と祈り求めることです。


3,聖霊によって強められる

 パウロの祈りの目的、願いは何だったでしょうか。16節にある「 御父が …御霊 により、…強 めてくださる」ことです。エペソは偶像礼拝の中心地でした。教会が存続するには困難な所でした。ところが 、パウロは祈ったのです。それはエペソのクリスチャンの内なる人が強められるようにです。

 内なる人とは、心 、魂です。その内なる人が聖霊によって強められる。聖霊は別の見方をするなら、内にいますキリスト、栄光の望みです。キリストが内におられることです (ガラテ ヤ 2:20)。パウロはそのことを祈ったのです。ですから彼らは 、心が強められたでしょう。おそらくは大きな迫害があったと思われます。ところが教会は生き残ったのです。アルテミスの神殿は完全に破壊され 、なくなりました。しかし後キリストの教会は、エペソや小アジア、更にヨーロッパ全世界に建てられていったのです。今日見るとおりです。その原動力は祈りです。祈りは空しく終わりません。

神様は私たちの祈り聞いてくださり、御聖霊によって私たちを必ず強くして下さいます。私たちは更に祈り、神の栄光を拝させていただきましょう。

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