2021年9/26
第四主日 伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】 マルコの福音書 第10章 46~52節
- :46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
:47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
:48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
:49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
:50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
:51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
メッセージ概要
今日の聖書箇所には、ひとりの盲人の話が出ています。彼は物乞いをしてその日その日を生きていました。おそらくそのように生活しているなら、将来の希望はなかったでしょうし、生きていることの楽しさもなかったかもしれません。
今日でも、いろんな悩みで希望がない、先が見えない、喜びもない、という人には良い知らせではないかと思います。「信仰があなたを救う」とキリストは言われましたが、今日でも同じです。私たちはただ信じることによって、見えなかったものが見えるようになる、希望を持つことができ、その希望は喜びとなるのです。
エリコの町は、交通の要所で栄えた町でした。そこにバルテマイという、目の見えない物乞いの人がいたのです。目の見えないことは大変なハンディです。しかも物乞いをするとは、費との憐れみ情けにすがって生きていくことです。それはある意味、情けない姿であったかもしれません。しかし、彼にはそれしか生きるすべがなかったのです。
そんなときに、彼には人生が変えられるチャンスが来たのです。それは、イエス・キリストがそば近くを通られたときです。
彼はすかさず「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください」と叫んだのです。ダビデ の子には意味があります。救い主という意味です。ですから、彼の叫びには意味がありました。自分をこの境遇から救って欲しい、そして見えるようになりたい。
ところが、周りにいる人たちは黙らせようとしました。間に割り込んで妨害したのです。私たちも、イエス・キリストに近づこうとするとき妨害が働きます。教会に行くのをやめよう、とか聖書を読むのをやめよう。今日でもそのような妨げが働くのです。
バルテマイは、それでも「私をあわれんでください」と求め続けたのです。私たちも妨害や妨げがあってもあきらめないで、求め続けるべきで す。必ず状況は変わります。
なんとキリストは妨げる者に向かって「呼んで来なさい」と言われました。彼らは「心配しないでよい」と言って彼を励まし、励ましたのです。状況は変わったのです。私たちも忍耐をもって、主を求め続けるなら同じように、変わっていくのです。妨げが取り除かれるのです。
そのとき、バルテマイは上着を脱ぎ捨てました。それには大きな意味があります。上着は彼の商売道具でした。道ばたで、上着を広げ物乞いをし、人々はかわいそうにと思って、そこになにがしかの小銭を投げてやるのです。それが彼の生き方でした。し かし彼は、それを投げ捨てたのです。イエス様の弟子たちだったペテロたちも、網を捨ててイエス様に従いました。同じことです。
喜び勇んでイエス様のもとに来ました。「何をして欲しいのか」と尋ねられ、「目が見えるように」と願ったのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼はすぐに目が見えるようになりました。そして彼は、どうしたでしょうか。もとの物乞いに戻ったでしょうか。彼は上着を捨てました。もう物乞いではなく、人の情けにすがって生きる所から立ち上がり、自立し、イエス様に従う人になったのです。 新しい生き方をする人に彼は変えられました。
私たちも変えられます。先の見えない生き方から、もっと先の永遠が見える、神様が新しいいのちを与えて下さる。神様によって生かされる、しっかりと自分の足で立つ人生が与えられるのです。私たちもまた、永遠のいのちを与えて下さるイエス・キリストについて行く者でありたいと願います。