2021年11/7
第一主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】 詩篇107篇 23~32節
- :23 船に乗って海に出る者大海で商いする者
:24 彼らは見た。主のみわざを深い海でその奇しいみわざを。
:25 主が命じて激しい暴風を起こされると風が波を高くした。
:26 彼らは天に上り深みに下りそのたましいはみじめにも溶け去った。
:27 彼らは酔った人のようによろめき知恵はことごとく 呑み込まれた。
:28 この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと主は彼らを苦悩から導き出された。
:29 主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。
:30 波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。
:31 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。
:32 民の集会で主をあがめ長老たちの座で主を賛美せよ。
メッセージ概要
私たちの人生はある意味、船旅にたとえられるかもしれません。
順風満帆のときもあれば大嵐に見舞われ沈みそうになってしまう。あるいはそれこそ難破してしまうことがあるかもしれません。そんなときに私たちを救って下さる神様を知ることができるのです。
1,人生のチャレンジ
23節に「大海で商いをする者」とありますが、歴史に大航海時代というのがありました。一攫千金を夢見て大型船を作り、貿易によって巨万の富を得る者たちがいました。当然 、リスクもあります。大嵐にあってすべてを失うこともありました。
それでもこの世の富を求めて人々は大海原に出て行くのです。それがこの世の姿であると思います。現代も方法は違いますが、この世の富を求める人の心理は変わりません。しかし、海ならぬ人波に飲み込まれ、自分自身をも失ってしまう人が少なからずいるのではないかと思います。
しかしそのような試練に遭うことは、必ずしもマイナスであるとは限りません。むしろそのような苦しみが真実の人生を知る機会にもなり得るのです。
「苦しみあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきて (愛すること )を学びました」 (詩篇119:71)というような言葉があります。私たちの人生には意味があります。目的があります。船も、ただ浮かんでいるのが目的ではないのです。目的地・港をめざして航海をしているのです。
私たちの目指すべき港は、天国です。永遠に航海し続けることはありません。やがては港に着く。安全で穏やかな港について安息を得るのです。
2,苦しみの時に叫ぶ
物事が順調なとき、和たちには心配はありません。しかし突然のトラブルに見舞われるとき、また困難に遭うとき、私たち自身の心が沈んでしまいます。
26節には「そのたまいしいはみじめにも溶け去った」
27節に「よろめき知恵はことごとく飲み込まれた」とあります。
新約聖書で弟子たちがイエス様と一緒にガリラヤ湖を舟で渡るとき突風に襲われ、舟が沈みそうになり、まさに海の藻屑と消え去るかと思われたとき、彼らは 眠っておられるイエス様を揺り動かしお願いしたのです。すると、イエス様は風や湖をしかりつけ嵐はやんだのです。
私たちも突然の災難に見舞われるときがあります。たましいは溶け去り、自分のもっていた知恵も経験も何の役にも立たない、自分自身が暗闇に飲み込まれそうになるときがあります。そのときこそ私たちは主に向かって叫ぶのです。祈るのです。そうするならば必ず主は嵐を鎮められ穏やかになるのです (29節 )。キリストの平安が私たちの心に満たされるのです。
3,キリストが水先案内人
「主は彼らをその望む港に導かれた」(30節)とありますが、私たちの望む港はどこでしょうか。それは天国です。私たちはこの世で永遠に生きることはできません。船は必ず港に入るのです。ですから私たちも目的地の港すなわち天国に入って永遠の安らぎと喜びを得るのです。
31節には、感謝が出てきます。それは、神様が私たちの人生航路を守って下さる、「人の子らへの奇しいみわざのゆえに。」奇しいみわざとは、十字架による罪の赦しです。救いです。 私たちは失敗や過ちを犯します。しかし、キリストはすべての罪を十字架の上で赦して下さいました。そこにたましいの平安、心のやすらぎがあるのです。
やがて私たちは天国に行ったとき、イエス様を目の当たりに見ることでしょう。天国には聖徒たちの大合唱―賛美があるのです。教会はそのことの前触れであり、ひな形です。
そしてキリストは私たちを導く人生航路の水先案内人です。私たちはキリストを頼りとして、どんなときにもキリストに求め、従い、平安な港に入らせていただきましょう。