2022年1/16 第三主日礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 ローマ人への手紙 5章 2~5節
- :2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
メッセージ概要
私たちは今、コロナ禍の中にあります。しかしこのような時にも神様は私たちに希望を与えて下さいます。
神様の与えられる希望は一時的なものではありません。また限定的なものでもありません。私たちの思いよりも遙かに大きく、また永遠の希望でもあります。
1,神様の与えられる希望
パウロはローマにいるクリスチャンたちに手紙を書きました。やがてローマにおいて大迫害がおこり、自らも殉教しますが、この手紙は苦しみにあるクリスチャンを励まし大きな力となりました。
2節に「今立っているこの恵み」とありますが、それは1節にある「神との平和」です。クリスチャンには心の平和 ― 平安があります。それは他の何ものをもっても得ることのできないものです。どのようにして神との平和を持つことができるのか。1節2節を見ますとパウロは繰り返し、「キリストによって」「信仰によって」と言っています。神様からの心の平和、平安は信仰によって得られるのです。キリストを通して私たちの心に与えられます。
私は四国にいた時クリスチャンドクターにお会いしました。 キリスト教には反対で信じる気もありませんでした。しかし交通事故を通して、自分の無力さはかなさを思い知らされ、聖書を通して神との平和、十字架を通して救いに預かることができたとお伺いしました。
神様は私たちを試練に遭わせられることがあります。乗り越えられない試練は与えられません。むしろそのことによって私たちは心が強められ、力が与えられ、同じ苦しみの中にある人たちを慰め励ますことができるのです。
私たちが神様から与えられる希望は小さなものではありません。遙かに大きなものです。2節には「神の栄光にあずかる望み」とありますが、天国の希望です。誰も奪うことはできません。そして天国に入るのをだれも妨げることはできないのです。私たちは、キリストによって十字架で罪が赦され、信仰によって赦された。救われた、と確信を持って天国に入ることができるのです。
2,苦難を喜ぶ
神の絶大なる栄光の希望が与えられると私たちの心は変わります。どのように変わるのか。苦難を喜ぶことができるようになるのです。客観的に自分を見ることができます。この世のことだけであると私たちの視野は狭くなります。目先のことしかわかりませんし、自分のことしか見えません。しかし神様は私たちの視野を信仰によって開いて下さいます。一言で言うなら、天国が見える、と言うことです。
最初のクリスチャン殉教者ステパノは石で撃ち殺される時、天が開けてキリストの姿が見えました。そして彼は自分を殺そうとしている人たちのためにこの重荷を彼らに与えないで下さいと取りなしの祈りをしたのです。相手を赦すことができたのです。彼は天国が見えました。神の栄光を見て、迫害する者を赦すことができたのです。
ですから私たちは信仰によって視野が広くなる。見えなかったものが見えるようになる。神が働かれて心に平安を与えて下さり、勝利する。本当に心から喜ぶことができるのです。
3,聖霊により愛が注がれる
「神の栄光にあずかる希望」は決して失望に終わらないとパウロは語ります。なぜか。聖霊によって神の愛が注がれているからです。あのペンテコステの日から今日まで、福音の真理は変わりません。今も聖霊は働かれます。私たちの心に神の愛を与えて下さいます。
明治の終わり頃にパックストン先生は英国から遣わされました。日本の教会は力を失っていました。しかし神様は先生を通し、「聖潔」の恵みを与えられました。不信仰から立ち返り、聖霊に満たされ勝利する者が多く起こされたのです。
再来日の時、アメリカを経由してこられナイアガラの滝を見られ昔と全く変わらなかった猛瀑布の滝であったと言われ、聖霊の流れも昔から変わらない、サタンは神の恵みはチョロチョロとしか流れていないと言うが、「彼は嘘つきだ」今も聖霊の流れは豊かに流れていると語られたのです。神の大いなる恵みの大河を信じましょう。