2022年4/3 第一主日礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 エレミヤ書 6章 14~16節
- :14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
:15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。」
:16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。
メッセージ概要
ロシアのウクライナ侵攻が始まって1ヶ月が立ちましたが、一向に解決の道は見えません。世界的にも大きな影響を及ぼし、将来を楽観視することはできません。どこに解決の糸口はあるでしょうか。
エレミヤ6:16に「道の分かれ目に立って見渡せ。幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見いだせ。」と、主なる神様はエレミヤが語った2600年以上も昔から、語っておられます。
私たちは今、幸いへの道に向かうのか、それとも不幸の道を歩むのか、分岐点に立っています。たましいに安らぎを見いだす道に歩みたいと思います。
1,偽りの平安に惑わされない
エレミヤは預言者でした。神様から語るべき言葉をいただき、イスラエルの人たちに伝え、彼らが神に従い、神様から豊かな恵み祝福を受けるようにと御言葉 を取り次ぐ人でした。
しかし、人々は彼に耳を傾け神に従おうとはしなかったのです。そこには、民の傷をいい加減に癒やす者たちがいたと言うことです。適当に慰めの言葉を言い、人の機嫌をとって、利得を貪る預言者や祭司たちがいたということです。
預言者は神の言葉を語り、祭司は神殿で神様に犠牲を献げる働きをする者です。ところが彼らは利得を貪る、個人的な利益や供与を受ける、自分の私服を肥やす者たちであったと言うことです。ですから、純粋に神に仕えることをしなかった、自分の目先の利益にしか目が行っていなかったのです。そのために 彼らは平安がないのに、「平安だ、平安だ」といって、迫ってくる神の裁き、イスラエルの滅亡から目をそらさせてしまったのです。
ただ一人、エレミヤだけが涙をもってイスラエルの民に、来たるべき滅亡を預言し、涙をもって語ったのです。もし、彼らがエレミヤの声を聞いて、悔い改めたなら、主なる神に立ち返って偶像を捨て、犠牲を献げていたら、ヨナ書にあるニネベの町のように滅亡を免れ、本当の平安―平和を得ることができたのではないかと思います。
2,幸いの道を尋ね求める
イスラエルが岐路に立ったとき、「忌み嫌うべきことをして、 恥を見ても、恥もせず、恥が何かおも分からなかった」とあります。それは、神以外のものを神とする、偶像礼拝であったのです。今で言うなら、仕事や家庭それが第一となり、神様は二の次になってしまう。信仰においてはまさに、全能の神が第二、第三のものとなっている状態です。果たしてそのままで、死んだ後、神の前に立つことができるのか。
エレミヤは15節で「だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。」と警告したのです。それが後にバビロン捕囚という現実になったのです。
今日、私たちは分かれ道に立っているようなものです。いったいどちらが幸いな道であるのか。知らなければなりません。また幸いへの入り口、いのちに至る門を見いださなければならないのです (マタイ 7:13,14)。
どのようにして幸いの道を見いだすことができるでしょうか。エレミヤは「いにしえの道」と言いましたが、私たちには聖書があります。聖書によって私たちは、幸いにいたる道を見いだすことができます。神様は私達に聖書を与えて下さいました。それと共に私たちを導かれる助け主、聖霊がおられます。『あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。』 (イザヤ 30:21) とあるように、聖書を通し聖霊が私たちに道を示して下さるのです。
3,安らぎを見いだす
本当の平安は何でしょうか。お金がある事でしょうか。仕事ができることでしょうか。
幸いの道は何でしょうか。イエス・キリストは「私が道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ 14:6)と言われました。幸いの道はイエス・キリストに従って行くことです。キリストのもとに行き、キリストにゆだねるなら、たましいに安らぎを得ることができるのです (マタイ11:28,29)。