「一番偉い人」

2022年5/1 第一主日礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】 マタイの福音書 18章 1∼5節
:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

 

メッセージ概要

 5月 5日は子どもの日です。子どもの成長を願わない親は一人もいないと思います。
 神様はまた、私たちが健全に成長することを願っておられます。
 このところでは、弟子たちは誰が天国で一番偉いか質問をしています。

1,一番を目指す
 この世の社会は、競争社会です。そして、すぐ人と比較してしまうところがあります。弟子たちも、お互いに競争をしていました。あるとき、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは母親と一緒にこっそりとイエス様の所に来て、天の御国でイエス様の右と左に座れるようにしてほしいと願いました (マタイ 20:20)。

 また最後の晩餐でも、弟子たちは誰が一番偉いのか議論をしています。おそらくこの世に生きている限りこの問題は続くと思いますし、自分が一番偉いのだと誰もが思うところであると思います。

2,子どものようになる
しかし、イエス様は一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」と言われました。

 一つは、向きを変えなければならない、ということです。
 向きを変えることは、心を変える、物の見方価値観を変えることです。
 この世では、誰でも一番を目指します。それを止めることです。人と比較して優れた者になろうとする思いをやめることです。

 そして目指すのは、人よりも優れた人間になると言うことではなく、むしろ神様に喜ばれる生き方をすると言うことです。ナンバーワンではなく、オンリーワン、自分でしかできない生き方を自分がすると言うことです。
 ですから、この世の競争原理から離れて、自分は何のために生きているのか、神様は自分を何のために造られ、生かされているのかを知る必要があります。

 イエス様はなぜ子どもを立たせたのでしょうか。当時の社会では、子どもは人の数には入りませんでした。いわば価値のない者、値打ちのない者と見なされていたのです。軽く見られていました。でも、子どもたちのようにならなければ、天国そのものに入れなくなってしまうのです。ですから、自分が価値ありとするよりも、自分は価値のない人間だと謙遜になり、それでも神様に愛されている、守られているのだと、心に信じることです。

 幼子は、親を頼りにします。親が見えなくなると泣き出します。それと同じように、天地創造の神様のみを当てにする、神様が共におられるなら安心できる。そのような心を持って、自分を低くするなら謙遜になるなら、天国に入れ一番偉いと見なされるのです。

 以前「天国の門」という劇がありましたが、その中で、へり靴・高ぶり帽・欲張り袋・威張り棒を全部捨てた人が門の中に入ることができたのです。
 私たちもそのような人間の心の思いを捨て去り、無邪気な子どもとなって天国に入らせていただきたいと思います。

3,子どもを受け入れる
 そしてイエス様は「子どもを受け入れる」ことを言われました。いわば価値のない、見劣りする、やっかいな、手のかかる人を受け入れる、愛することです。

 私たちの思いや力ではできません。ですから「わたしの名のゆえに」と言われました。
 キリストの名、それはキリストの権威・力です。

 「キリストは、ご自分を空しくして、…自らを低くして…十字架の死にまで従われました。」(ピリピ 2:6 8)。

 キリストの力と愛によって、信仰によって受け入れることができるのです。
 そうするなら、それはキリストを受け入れることになるのです。決して無駄にはなりません。「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」 (マタイ 25:40) とイエス様はそのことを最も喜ばれます。

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