2022年 9/11
第二主日 敬老祝福礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 エペソ人への手紙 6章 5~9節
- 6:5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
6:6 ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、
6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
6:8 奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。
6:9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。
あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。
メッセージ概要
今日は敬老祝福礼拝ですが、高齢者に限らず人を尊重する、敬意を払うことは大切であると思います。
当時の社会はローマが支配し、奴隷制度がありました。それで、救われて教会に集まる中にも奴隷の人がいたり、また奴隷の主人もいたのです。ですからパウロは、奴隷にも、主人にも、まずクリスチャンとして、イエス・キリスト信じる者としてどうあるべきか勧めをしています。
1,奴隷に対して
まず奴隷のクリスチャンに対して、主人に従いなさい。と勧められています。自分は真の神様を信じたから何でもしていいんだ、好き勝手にするという生き方ではありません。
パウロは「キリストに従うように」と言っています。それは私たち自身が、キリストに似た者としてこの世で生活する。生きることを意味しています。
キリストが最後の晩餐で弟子たちに命ぜられたのは、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。」と言うことでした。そしてキリストは真っ先に弟子たち一人ひとりの足を洗われたのです。
それは奴隷のする仕事でした。しかしキリストは膝をかがめ、へりくだって弟子たちの足を洗われたのです。それはまさにキリストご自身の生涯でした。
「仕えられるために来たのではなく仕えるために来た。多くの人の贖い、罪のゆるしの身代わりとなっていのちを捨てるために来たのである。」と言われたのです。
ですから、私たちもキリストが生きられたように生きるべきです。それは私たちには出来ません。しかし助け主、御聖霊よってそれは可能です。御聖霊はキリストがどのように生きられたか、私たちに教え示してくださり、しかもキリストに従って生きる力を私たちに与えてくださいます。
人にへつらってご機嫌取りのような、うわべだけの見えすいた生き方ではなく、心から人を愛し尊敬の念をもって仕えることが出来るようにしてくださるのです。
そのためには、私たちはますます神のみことば聖書を読み、祈り、神の助けを得なければなりません。おそらく1世紀の時代のクリスチャン奴隷はそのことを成し遂げたのでしょう。ですから、クリスチャンによる一揆や反乱はありませんでした。むしろ殉教に甘んじていったのです。
その理由は明確です。8節に「主からその報いを受ける」ということを知っていたからです。彼らが求めたのは、この世で自由人になることでもなければ偉い人になることでもない。天の御国に凱旋してキリストから「善かつ忠なるしもべよ、よくやった!」と、ねぎらいと褒めていいただけることでした。
私たちも、私のために十字架にかかりいのちを捨ててくださり、死の中からよみがえられたイエス様がそのように言ってくださればどんなにありがたいことだろうかと思います。
私たちは天の御国での栄誉・栄冠に与りたいと願う者です。
2,主人に対して
そしてクリスチャン主人に対してパウロは「同じようにしなさい」と勧めました。
キリストのしもべとして神の御心を心から行うことです。たとえ奴隷であっても相手を尊重し、愛することです。これもキリストの愛がなければ出来ません。御聖霊の助けなくしては出来ないことです。出来なければ、出来るようにしてくださいと祈るべきです。
「脅かすことはやめなさい。」現代もパワハラの問題があります。私たちは何よりも相手の人格を尊重し、その人も私と同じように主に愛されている兄弟姉妹だと信じて対応すべきです。
神様は人を差別されたり、えこひいきされません。どんな人にも、絶大なる愛をもって臨んでくださいます。
私たちも神様からの大きな愛をいただいて、心恵まれて、主人も奴隷も共に救ってくださったキリストに感謝をささげ、この世の隔たりを超えて、互いに愛し合う者とさせていただきましょう。