2022年 11/20
第三主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 へブル人への手紙 10章 19~25節
- :19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
:21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
:22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
メッセージ概要
来週からアドベント(待降節)に入ります。キリストがこの世に来て下さったクリスマスをお祝いする時期です。22節に「邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められています。
年末に向かう慌ただしいときですが、私たちの心から世の煩わしさ、焦りや不安を取り除いていただき、平安と喜びに満たされてクリスマスを迎えさせていただきたいと思います。
1,神に近づく
19節に「こういうわけで」ということばがあります。前節の「罪と不法が赦される」ということばを受けています。罪が赦される不法が赦される、素晴らしいことです。
明治時代のころ好地由太郎と言う人がいましたが、彼は奉公先の主人を殺し、店を放火しました。死刑の判決を受けたのですが、獄中でクリスチャンとなり後、伝道者となったのです。
彼は多くの犯罪人を救いに導き、司法省の許可をもらって全国の監獄で伝道したのです。
なぜ彼は殺人の罪から救われたのか、19節には「イエスの血によって」とあります。十字架のことです。キリストが自分の身代わりとなって十字架にかけられ、死んで下さった。それを彼は信じたのです。
彼にとって大きな救いでした。自分の罪が赦される、そして罪の報いをイエス・キリストが全部負って下さる。新しい生き方ができるようになったのです。
20節にある「新しい生ける道を開いてくださった」のです。それは彼だけではなく、私たちのためでもあるのです。私たちも罪を犯しやすい者です。ついかっとなってことばの暴力を振るうことがあるかもしれません。そんなとき、イエス・キリストが十字架にかかって赦して下さった。そのことを信じるとき、自分からお詫びをすることができる。また相手が暴力を振るってきたときも、キリストの十字架を思い出すことによって赦すことができる。「十字架のことばは滅びに行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力です」(Ⅰコリント1:18)
またキリストは大祭司、神様との間にあって取りなして下さる方です。特に私たちの心、邪悪な良心を、血を流して赦して下さる方です。キリストの十字架によって赦されないことは一つもありません。十字架の血潮によって私たちの心は洗い清められて新しくなれるのです。この事を信じる証しとなるのが22節「からだをきよい水で洗われ」洗礼を受けるということになるのです。洗礼を受けることは自分の罪が洗い清められて新しくなれるという意味があります。
2,互いに励ましあう
23節に「私たちは動揺しないで」とあります。心が動揺する不安になる。そんなときがあるのです。失敗したり落ち込むことがあります。でも私たちは大丈夫です。希望があるのです。天国に入らせていただける。たとえ失敗過ちがあっても、キリストの十字架の赦しがあり、天国に凱旋できる。「告白し続ける」とあるのですがお互いに励まし合い続けることです。 また憎しみ悪意を捨てて、相手を愛する、相手に良いことをすることをお互いに気をつけて励まし合うことです。
25節にある「自分たちの集まりをやめたりせず」とは礼拝のことでしょう。ユダヤ人たちは「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との十戒のことばを忠実に守ってきました。私たちはキリストのよみがえりを信じて日曜日に礼拝しますが、止めたりせず互いに励まし合い共に集まって礼拝したいと思います。
なぜならその日、すなわちキリストの再臨―再びこの地上に来られる日は近いからです。私を愛し、十字架にかかり、過ちを赦して下さったキリストが来られる。私たちは期待して待ち望みたいと思います。