2023年 7/9
第二主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 コロサイ人への手紙 1章 21~23節
- :21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
メッセージ概要
パウロはコロサイにいるクリスチャンに手紙を書きました。それは正しい信仰が彼らの心に根付くようにとの思いからです。正しい信仰とはキリストの十字架によってのみ私たちは救われるということです。
1,神から離れていた
かつての私たちは21章に出てくるように「神から離れていた」者でした。ですから神様のことを気にかけたり考えたりすることはなかったと思います。ただ苦しいときにだけ神頼みをすることであったと思います。
「敵意を抱き」とあるのですが、この意味は神様にあえて敵対するというよりも、自分の好きなように生きるという意味合いが強い言葉です。もちろん無視するというような意味もありますが、神様とは全然関係のない生き方をしていたということです。
しかしこの事は、聖書から見るならば正しい生き方ではなかったのです。なぜなら、全能の神様はすべてのものを創造され私たちをも造られて、神様によって祝福され、この地上すべてのものを管理するように任された者です。ですから、好き勝手にすればいいということではなく、すべては神様の手の中にあり、全能の神様に従って生きることが本来の人間の生き方であったのです。しかし、自分勝手にしたいという思いが強く、神から離れ、悪を行うようになってしまったのです。
その悪のことを罪と聖書では呼んでいますが、ローマ 1:21には「神を知っていながら、神をあがめず、感謝もせず、思いは空しくなり、心は暗くなった」とあります。それが神を信じない者の心の状態であり、その結果悪を行うようになったのです。その悪とは「貪欲、悪意、ねたみ、殺意、争い、陰口、中傷」といったようなものです(ローマ 1:29~)。そのような悪を行っていて自分は正しいとは言えないのです。
それ故に、罪のために死ななければならない、人間は滅んでしまう問題が出てきたのです。しかし、神様は私たちを愛しておられます。私たちを死の滅びから救うために、救い主キリストを私たちに遣わされたのです。
2,神との和解
心の中に、罪を持っている私たちがいくら良いことを行って、神様に赦していただこうとしてもできないのです。弱さがあります。そして私たちは不完全な者です。自分で自分を救うことはできません。だからこそ、私たちを救って下さる救い主が必要です。
それが、神の御子イエス・キリストです。キリストは神の子でありながら、救うために私たちと同じ人間となってこの世にこられました。そして、一つも罪を犯されませんでしたが、私たちの罪を赦すために十字架にかかって罪の代価を支払って下さったのです。
この十字架によって私たちは赦され、神様との和解ができるのです。キリストの十字架によって私たちの心の罪・汚れは血潮により洗いきよめられ、聖なる者傷のない者、そして責められるところのない者としていただけるのです。
ある人は湖で一緒に泳いでいた友人が溺れた、助けられなかったそれが夢の中に現れて心の痛みになっていました。しかしイエス・キリストを信じ、十字架でその罪が赦されたと信じたときから夢を見なくなったのです。罪が赦されたのです。
3,信仰の土台
私たちの信仰の土台は、私たち自身ではありません。キリストが土台です。十字架で罪が赦され、またキリストの復活により新しいいのち永遠のいのちをいただいて生きる。新しい生き方があるのです。 神様に愛され、神様に感謝をささげ、喜びにみたされて生きる生き方があるのです。
この信仰には希望があります。この世は過ぎ去っていきますが、私たちを受け入れる天国があるのです。 私たちのすべての失敗過ちが赦され、たましいが十字架の血潮によってきよめられ、助け主、 御聖霊が常に励まして下さり、それを信じて希望に輝いて生きることができるのです。
真にパウロはそのことを体験しました。そしてすべての人に告げ知らせられているのです。私たちも神様に愛され喜ばれ、益々、キリストの救いを伝える者とさせていただきましょう。