2023年 8/13
第二主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】
コロサイ人への手紙 1章24~29節 - :24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
:25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
:26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。
:27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
:28 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。
:29 このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
メッセージ概要
毎日暑い日が続いています。神様からの御力をいただいて暑さを乗り切っていきたいと思います。
パウロほど苦しみを受けながらもキリストの救いを伝えた人は他にいないと思います。苦しみを乗り越えてさらに喜びを表すことができるなら幸いです。
1,身をもって満たしていく
パウロは24節で「教会のために自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言いました。彼はかつて、迫害者でした。イエス様を信じると言うだけで、老若男女を問わず、鞭でたたき牢獄に放り込むような、まさに凶暴な狼のような人でした。
しかし、復活のキリストに出会い、人生が180度変わったのです。怒りの人から愛の人に変えられました。
なぜ変えられたのか、それは十字架の力です。キリストの苦しみとは十字架のことを意味していると思います。十字架は人の怒りを取り除き、神の愛を現す力があります。
パウロはそのことを見、体験し、信じた人です。ですから彼の犯した迫害の罪も赦され、彼はキリストの弟子―使徒となりました。それ故に彼はキリストを伝えることによって起こる迫害や苦しみを「喜びとしています」と告白しています。
なぜならこの手紙が書かれたのは牢獄の中でした。彼はそのような状況の中で、苦しいとか悲しいとか、一切泣き言を語っていないのです。同じようにピリピ人への手紙も牢獄で書かれました。その書には「喜び」がいっぱい語られているのです。真に彼はどんな境遇にあっても「喜び」でいっぱいの人だったのです。
2,神の奥義
パウロの喜びの秘訣はどこにあったのでしょうか。たとえ牢獄の困難の中にあっても喜ぶことができる秘訣を彼は知っていたのです。
それは「神の奥義」です。奥義とはムステリオン、神によって隠されている。明らかにせられていないもの、神秘です。なぜ隠されているのか、それは罪のゆえです。いわば心の目が閉ざされている。見えなくなっているのです。
神の奥義を見えなくしているのは、人の罪です。罪ゆえに、神の奥義が見えないのです。
パウロも見えませんでした。彼は、律法学者で旧約聖書もよく知っていました。パリサイ人であり道徳に厳格、品行方正な人でした。しかし、彼は神に対しては罪人でした。高慢であり自我の強い人でした。そのパウロも「私はキリスト共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19,20) との信仰体験によって神の奥義に与る者となったのです。
それは神の聖徒たちに明らかにされ、異邦人の間でも栄光にとむものであるとパウロは言っています(27節)。
この奥義とはキリストが心の中におられ栄光の希望となって下さることです。キリストは天に帰られましたが、もう一人の助け主、聖霊は私たちの心の中にキリストを現して下さいます。そして栄光とは私たちが栄光の体に変えられることです。この希望が与えられているのです。
3,キリストにあって全き者となる
パウロの目的は唯、神のことばを伝えるだけではありません。すべての者が神の前に立つとき、「全き者」完全な者として立てるようにとの願いがあります。
全き者とは、新改訳にあるように「成熟した者」大人であると言うことです。幼子はわがままで泣いたり叫んだりします。しかし大人は忍耐し我慢し、受け入れることができます。
それは真にパウロ自身が証ししているところのものです。すなわち「自分のうちに力強く働くキリストの力によって」すなわち、内にいますキリスト―助け主、御聖霊の力によって、苦労しながら奮闘できるのです。
私たちも自分の心の中にパウロと同じように、自分の自我が十字架につけられすべてを神に委ね、神の力、御聖霊が内に働き力の源となって、喜びと感謝に満たされ奮闘努力するものとさせていただきましょう。