2023年 10/15
第三主日 主日礼拝
ー西本耕一牧師
- 【聖書】
ルカの福音書 19章5~10節 - :5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人ところに行って客となった」と文句を言った。
:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
:9 イエスは彼に言われた。「今日救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
メッセージ概要
ここにザアカイという人の話が出てきます。イエス様に出会い人生が変わりました。
喜びに溢れる生涯となったのです。「人生は出会いで決まる」と、ある人は言いましたが私たちもイエス様に出会い、人生が喜びに変えられるのです。
1,神の前にへりくだる
エリコの町にイエス様が来られたとき、彼は背が低く群衆に遮られて見ることができませんでした。彼は先回りし、イチジク桑の木に登り、イエス様を見ていたのです。ところがイエス様は、ザアカイに声をかけられました。「急いで降りて来なさい。」彼はその命令に従ったのです。
人の性格は「高いところに上りたがる」思いがあるのではないでしょうか。一番になりたい。志はいいのですが、人間の弱さは直ぐ高慢になることです。人よりもえらい、その思いがザアカイにもあったと思います。取税人であり金持ちでもあった。ないものはないくらいに思っていたでしょう。
しかし彼には親切にしてくれる人はいませんでした。しかも人々は陰で彼のことを「罪人」とさげすんでいたのです。それだけの人でした。
そんな彼に対してイエス様は「急いで降りて来なさい。」と言われたのです。位置的な問題がある。彼はイエス様の上にいた。しかし、「降りて来なさい。」とはある意味、謙遜な者になりなさい、という意味があるのではないでしょうか。彼は急いで、イエス様の下に降りて来たのです。それが、恵まれる秘訣です。神様に祝福されるところとなるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う。」のです。
2,心に迎える
彼は喜んでイエス様を自分の家に迎えました。それを見ていた人々は「罪人の客となった。」とイエス様にも陰口、文句を言ったのです。しかし、それで終わったのではありません。
ザアカイは変えられました。イエス様と交わることによって、彼の心は変えられました。愛の人になったのです。なんと自分の財産を半分、貧しい人たちに施し与え、そして脅し取った物はは四倍にして返します。と言ったのです。彼は欲の深い人間でしたが、愛に溢れる人に180度変えられたのです。それは自分で努力して愛の人になったのではなく、イエス様との交わり、食事をともにして彼の心は愛と喜びに満ちあふれる者に変えられたのです。
私たちの心も満たされます。イエス・キリストを心にお迎えし、交わるなら私たちの心も愛に満たされ、喜びに溢れる者として下さるのです。
3,滅びから救いへ
これを聞いて、イエス様は「今日、救いが来た」と言われたのです。救いとは、金持ちになるとか健康になる、だけのものではありません。神様に、祝福された者となることです。
アブラハムは信仰の父と呼ばれています。神様を信じ、豊かに祝福される者となりました。受ける人ではなく、与える人となったのです。甥のロトにも平野の肥沃な土地を与えました。自分は山の方へ行きました。ロトが囚われの身となったときも、救出に向かいました。その報いを受けませんでした。彼ほど豊かに献げ恵まれた人はないと思います。それが神様の祝福でした。
ザアカイは失われた人でした。罪を犯して失敗したアダム・エバのようでした。呪われて金の亡者のようになっていたのです。しかし、イエス様は彼を探し出し、御許に招き、彼の家に入って、罪人の客となったとさげすまれても、彼の友となり、彼を愛し救われたのです。
ザアカイは愛に豊かな人となりました。罪とは、位置を取り違えることです。
彼は金持ちと高ぶっていました。ところがイエス様は「降りて来なさい。」と言われたのです。神の恵みは高いところから低いところに流れます。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う。」この信仰の原則を忘れないで、何よりも神に愛され、恵まれる者とさせていいただきましょう。