2023年 11/12
第二主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】
コロサイ人への手紙 2章8~12節
:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。
メッセージ概要
今の時代はインターネットにより世界の情報が瞬時に伝わる時代です。また色んな情報が氾濫し何が本当か分からないことがあります。うそのニュースフェイクニュースや生成AIによる合成された偽物、様々なものに取り囲まれています。
1,この世のものに囚われない。
パウロの時代にも、心が引っ張られるものがありました。8節に、「空しいだましごとの哲学」とあります。哲学は立派な学問です。知的好奇心をそそるものです。しかしそれは心を満たすものではありませんし、ましてや永遠のいのちを与えてくれるものではありません。それは人間による言い伝え、人間の考えであり、世のもろもろの霊すなわち神から出てこない霊的なもの この世の宗教といった類のものであり、私たちを救いに導くものではないのです。
2,キリストに満たされる
それでは何が私たちの心を満たすでしょうか。満足を与えるのでしょうか。それはキリストです。キリストこそ私たちのたましいを満たし、喜びを与えて下さる方です。いわば無限の貯水池です。バックストン師が日本に来られたとき、ナイアガラの瀑布を見られたそうです。そのような滝はイギリスにも日本にもありません。まさに水煙を上げて流れる滝に圧倒されたそうです。
そして、2 回目に日本に来られたときにももう一度ナイアガラの滝を見られたそうです。十数年たっても変わっていなかったそうです。それを見て聖会の説教で「ナイアガラの滝は何十年何百年経っても変わりません。聖霊の流れも永遠に変わらないのです。サタンはチョロチョロとしか流れていないと言います。しかし、サタンは嘘つきです。」今も変わることなく聖霊の流れは大河となって流れ潤しているのです。彼は嘘つきです。と語られ、聖会は大いに祝され溢れる主の恵みに一同満たされたのです。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質―神の愛、きよき力、心の満足、自制、柔和、謙遜といった聖霊の実が、私たちの内に宿り、ナイアガラの滝のように注がれ満ちあふれるのです。
3,キリストの割礼―十字架
キリストに心が満たされるためには、肉のからだ、すなわち自分の自我、自尊心や心の欲望を取り去ることです。どのようにして私たちは、肉の欲を脱ぎ捨てることができるでしょうか。パウロは11節で「キリストにあって、・・・人の手によらない割礼を受けました。」と言っています。キリストの割礼とは十字架のことです。私たちは肉のからだすなわち、心の中にある欲望を、自分の自尊心すなわち自我と共に捨て、葬り去ることが必要です。
いつまでも肉の思い、欲望に自我に捕らわれないことです。どのように自我から解放されるのか。それはキリストの十字架です。パウロは私はキリストと共に十字架につけられた、と告白しました (ガラテヤ2:19,20)。十字架につけられる 磔殺の信仰が必要なのです。 そして、バプテスマにおいてキリストと共に葬られることです。聖霊のバプテスマを受けなければなりません。キリストともに十字架に付けられ殺され、キリストとともに葬られ、捨てられ、キリストとともによみがえらされる、新たな自分はキリストに従うものとなるのです。
それは神の力を信じることです。死んだ者を生き返らせることができる。神は新しいいのちを与えることができる。神様は私を造り変えることができる。そのことを信じて委ね、全能の神を信じて生きることです。
もはや自分の思い、力で生きる必要はありません。キリストが生きて下さる。そしてキリストが私の心を満たして下さる。私を生かして愛して下さるのはキリストである。そのことを信じ、キリストの愛に満たされて、神に感謝するものとさせていただきましょう。