2024年 3/3
第一主日 聖餐礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】
マタイの福音書 5章17~20節 - :17
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。:18
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。:19
ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。:20
わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
メッセージ概要
イエス様が宣教に立ち上がられたとき行われたのは何か。もちろん天国に行けるための救いを語られましたが、もう一つのことは「癒やし」です。
悪霊に取り憑かれた人、てんかんの人、中風の人など病人を癒やされたのです。救いと共に、癒やしの御業が現されました。それによって多くの人が集まり、人々は神をあがめました。そして有名な「心の貧しい人は幸いです。」から始まる山上の垂訓を語られました。
しかしその時、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、天国に入れないと言われました。律法学者やパリサイ人は非常に真面目です。それにまさるとはどのようなことなのか。そうでなければ天国に入れない。とイエス様が言われた真実がどこにあるのか考えなければなりません。
1,律法と預言者
イエス様は「律法や預言者を廃棄するために来たのではない」と言われました。律法と預言者それは何を意味するかと言えば旧約聖書です。
当時のユダヤ人社会では、律法が重要な役割をしていました。生活するために律法が必要であり、それが基盤となって人々は生活していたのです。
しかし、イエス様は安息日に病人を癒やしたり、弟子たちが安息日に麦の穂をつまんで食べるのも赦されました。人々はイエス様が律法破りだと思ったのです。そのような行動をみるなら、確かに律法を破っているように見えます。
安息日に働いてはならない。それが当時の一般的解釈でした。ところがイエス様は「廃棄するためにではなく、成就するために来た」と言われました。
律法を成就する。どのように成就するのか。
それは、ある律法学者に答えられたことばにあります。マタイ22 章37 節で一番大切なのは「心をつくし、いのちを尽くし、 あなたの神、主を愛しなさい」第二は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われたのです。ですから、律法の精神、そして聖書を通して神様が私たちに語っておられることは、愛しなさい。この一語につきるのです。
愛するのか愛さないのか。そのことです。それは私たちにも今、問われています。神様を愛しているのか、隣人を愛しているのか。
金の亡者ザアカイは自分の財産を捨てて、神を愛し、人を愛する人に変えられました。
ウクライナで戦争が始まって2 年になります。
クリミア半島は占領されています。かつてそこでも戦争がありました。ナイチンゲールは、従軍看護婦として働きました。敵味方区別なく助けたのです。しかし、イギリス世論はなぜ敵を助けるのか非難したのです。しかし彼女は続けやがて国際赤十字にその精神は受け継がれて行ったのです。それは神を愛し、人を愛する所から来ているのです。
2,パリサイ律法学者にまさる義
イエス様は「あなたがたの義がパリサイ律法学者の義にまさらなければ天国に入れない」と言われました。彼らは真面目です。品行方正です。それにまさる義を行うことができるのだろうか。義とは正義の義です。正しいことを行う。それが一般的な解釈であると思います。
しかしある宣教師の先生が、「義」とは我の上に羊が被さっている。それが義だ。と説明しました。その羊こそ、キリストであり、私たちを覆ってくださる。守ってくださる。
「義人はいない。一人もいない」しかし私たちを守り、罪の身代わりとなってくださるイエス様を信じるなら、私たちは神に義と認められるのです。そしてすべての罪は十字架で赦され、一点の罪の曇りもない、神によって義と認められるものとなるのです。その神様を信じるなら、その人は義と認められ、天国に入ることができるのです。
律法学者やパリサイ人は自分の力で正しく生きようとしました。しかし、それは偽善でした。後で、救われたパウロはよく分かりました。私たちも自分の偽善が分かると思います。
自分は罪深い人間だと分かります。キリストの十字架なしには自分の罪は赦されない。そう信じて、すべてをキリストにお任せする。そして、キリストに従って生きる。その生き方が、律法主義者にまさる生き方なのです。
すべてを主に委ね、キリストに従って義の道を歩ませていただきましょう。