2024年 3/17
第三主日
召天者合同記念礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】
ヨハネの福音書 11章25~26節 - :25
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。:26
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
メッセージ概要
今日は、召天者合同記念礼拝ということでご遺族の皆様も礼拝に出席して下さり、また先に天に召された方々の写真をともにして礼拝できることをうれしく思います。
やがてのときには、天国で再会し喜びをともにできることを信じます。
1,死の現実
私たちは故人の写真を見て懐かしく思い「あんなこともあった。こんなこともあった。」と思い出します。しかし残念なことには、話ができないことです。
死の現実は、親しい者でも離れてしまうことです。写真に向かって話しかけても答えてくれませんし、会話はできません。
しかしその死を乗り越えていくものがあります。それが復活です。
いのちが復活する。なかなか信じがたいことです。
私も信じられませんでした。むしろ、復活とかキリスト誕生のときの処女降誕―聖霊によって生まれる。そんなことがなければ、キリスト教はよい宗教だ。簡単に信じられると思っていました。しかし今は全く逆です。もしこの復活―死からのよみがえりがなければ、信じるに値しない。空しいものであると思います。それは、キリスト教に「復活」があるからこそずっと信仰が続いている。そしてこれからも、復活の信仰によって続けられるだろうと思います。
2,キリストを信じる者は死んでも生きる
キリスト教で一番よく知られているのはクリスマスです。全世界でお祝いされています。しかし大切なのはキリストの復活です。日本でも少しずつ知られてくるようになっています。イースター復活祭、これがもっと宣伝されればと思います。
ヨハネの福音書11章にはラザロの復活が記されています。親しくしていたラザロが死んだ。その時姉のマルタに語られたのが、この聖書のことばです。
マルタは兄弟が死んだときどうすることもできませんでした。私たちも家族が死んだら気が動転するかと思います。私も現実にそんなことがありました。
しかし、キリストは「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じるものは、たとえ死んでも生きる」と約束されます。そこに、大きな励ましがあります。
死に直面する者には大きな力です。
そして何と、この11章には死んだラザロが生き返ることが記されています。大きな驚きでした。そしてそのことを通して多くの人が信じたとあります。復活には大きな力、励ましがあるのです。
3,信じる者は永遠に死ぬことがない
そして、大事なのは今、信じることです。キリストはマルタに「あなたはこのことを信じますか」と尋ねられました。マルタは「はい、主よ」と答えているのです。
復活は、理屈を持って説明できません。それはあなたが何のために生まれ、何のために死ぬのか説明するのと同じくらい難しいことです。
しかし、復活には希望があるのです。信じるなら。永遠に死ぬことはない。
これほど大きな希望は他にはありません。唯信じるだけで与えられるのです。
柳田邦男『ガン50人の勇気』に「涙して洗った茶碗」のエピソードがあります。末期ガンの友人に洗礼を授けてくれと頼まれ、病室にあった茶碗を涙ながらに洗い、洗礼を授ける。「主の祈り」を教えてくれと頼まれ、晴れやかな表情を見せ間もなく息を引き取ったという話です。
詩篇の23篇に「主は私のたましいを生き返らせ、 たとえ、死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」おそらく、その信仰が、その確信がこころに与えられ、死を恐れない。安らぎがある。なぜなら、死の中からよみがえられたキリストが共におられる。その信仰があったと思います。
私たちも「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われるイエス・キリストを信じ、希望を与えていただく者となりましょう。