2025年 2/9
第二主日 一般礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】
コリント人への手紙 第一 1章18∼25節 - 18:
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
19:
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
20:
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21:
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22:
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。
23:
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24:
ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
25:
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
メッセージ概要
この世では様々な問題があります。どのように解決できるのか。パウロはこの手紙を通して語っています。
1,神の力―キリストの十字架
パウロは十字架のことばが、神の力であると語っています。何に対する力か。それは滅びに対しての力です。
彼は人間の知恵や悟りがいかにはかないものであるかを語っています。知恵ある者も死によって滅び、悟った者も死によって消滅してしまう。なんと無力だろうかと思います。
それでは何が私たちを滅びから救うのか。パウロは改めて十字架のことばが私たちの救いの力であると語ります。キリストが十字架に架けられたのは私たちの罪に対する身代わりの死です。自分の代わりに死んで下さったキリストの愛が私たちの力になるのです。
2,宣教の愚かさ
宣教の愚かさとはキリストの十字架です。十字架と復活は私たちの理解を超えます。
信仰とは、見たから信じるものではなく、見なくても信じる、それが信仰です。
神はそのひとり子を十字架にかけて、罪人の私たちを赦して下さいました。それが宣教の愚かさであり、神の愚かさです。その赦しがなくては、私たちは救われることはできません。
願わくは私たちも、神の愚かさ。ひとり子を十字架にかけて私の罪を赦して下さった。その愛を心の内に与えていただいて、十字架につけられたキリストを宣べ伝える者とさせて頂きましょう。