「復活の勝利」

2020年9/20
第三主日召天者合同記念礼拝
ー西本耕一牧師ー 

 

 

音声メッセージです。

 

メッセージ動画はこちらからご覧いただけます。

 

【聖書】コリント人への手紙第一 15章50~58節
:50
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
:51
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
:52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
:53
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
:54
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。
「死は勝利に の み込まれた。」
:55
「 死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
:56
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
:57
しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

 

メッセージ概要

柏原教会では季節の変わり目に、召天者合同記念礼拝を行っています。先に召された故人を偲ぶと共に、神様の約束・御言に立って、天の御国を目指して共に歩んで参りたいと願っています。

1,私たちは変えられる
私たちの体は年と共に衰えます。聖書では「朽ちる」とありますが、やがては死ぬときがあるのです。しかし、死は終わりではありません。永遠への始まりとなるのです。それはよみがえり、すなわち復活があるからです。私たちの肉体は永遠に続きません。徐々に衰え、ついには死んでしまいます。身体は朽ち果ててしまいます。聖書には、「土から造られた者は土に帰る」と言っています。私たちの肉体は土に帰るのです。しかし、その魂は神のもとに行きます。そして私たちは変えられるのです。栄光の体、朽ちずしぼむことのない永遠の体に変えられるのです。それは一瞬の神様の御業です。

死ぬことは眠りにたとえられます。51節にそのことが出ています。私たちからすれば、先に死んだ人たちはある意味、眠っている状態と受け止めることができます。そして眠りから覚 める時が来るのです。その眠りから覚めるのはまさに「一瞬」のことです。ある人はこのように言っていました。こちら側では「お休みなさい」と言ってその人が眠ったとき(死んだとき)、あちら側(天国)では「おはよう」と言って目が覚める(天国でよみがえる)くらいの一瞬であると言われました。それでしたら私たちは、死ぬことは恐ろしくありません。たちまちのうちに、朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。私たちは朽ちる身体を脱ぎ去り、朽ちない栄光の身体を着て、天国で平安と喜びをいただいて永遠に生きられるのです。

2,復活の勝利
それでは死の存在はどうなるのでしょうか。私たちは死をどのように受け止めればよいでしょうか。「死は勝利に呑みこまれた」とあります。確かに死は存在します。そして死のとげも存在します。とげは刺すものです。ちくちく私たちの心を刺す針のようなものです。なぜ心を刺すのでしょうか。それは心の中にある失敗、過去の悪い行い、現在も行っている悪習慣が自分の心を刺すのです。それがどこから来るのか。律法です。私たちには、やっていいことと、やってはいけない、定められたものがあるのです。それが律法です。ところが良いことを しようと思ってもできない。かえってやってはいけない悪を行ってしまう。自分は惨めな人間だ。それが死のとげなのです。心を突き刺すものです。それをどうすれば、取り除くことができるのか。
ただ一つだけです。それはイエス・キリストによって、私たちに勝利が与えられる、十字架と復活です。キリストは十字架によって私たちのすべての罪をゆるし、死のとげを抜き、復活によって死は呑みこまれてしまったのです。信じるなら、私たちはその勝利が与えられます。そして先に召された方々はそのことを信じて、私たちと共に復活を待ち望んでおられるのです 。私たちには時間の制約がありますが、神様の側からは時間の制約はまったくありません。聖書に書かれてあるとおりに、やがての時には私たちは実際に体験することになるのです。

3,主のわざに励む
ですから私たちは復活を信じ、死を恐れないで生きることです。この手紙を書いたパウロは「いつも主のわざに励みなさい」と勧めています。主のわざとは何でしょうか。「愛する」と言うことです。律法の根本は神を愛し、人を愛することです。ですから、愛することの行いは無駄にはなりません。たとえ人が見ていなくても知らなくても、神様はご存じです 。神様は私たちのことを理解して下さっています。ですから、無駄なことは一つもないのです。私たちは信仰を持って神様の喜ばれる「愛のみわざ」に励むものとさせていただきましょう。