2021年11/28
第四主日
第一待降節 伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 ヨハネの福音書15章 12~14節
- :12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです。
:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも
持っていません。
:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
メッセージ概要
キリスト教は一言で言うなら、愛の宗教です。神の愛によって救われ、神の愛で生かされる。そのような人生を神様は私たちに与えてくださいます。
1,キリストの愛
イエス・キリストは神の愛を見せるために弟子を選ばれました。ペテロやパウロ、この福音書を書いたヨハネ、そしてイエス様を銀貨30枚で裏切ったユダもいました。
誰一人として、完全な人はいなかったでしょう。ペテロもイエス様を裏切ったし、パウロはもともと迫害する人でした。ヨハネも雷の子と呼ばれる、気の短い人でした。しかも、最後の晩餐の時まで、誰が一番偉いのかと競争し、誰もイエス様の十字架のことは考えないような人たちでした。
そんな弟子たちに対してイエス様は愛を示されたのです。ペテロは最後までついて行きましたが、鶏が二度鳴く前に三度知らないとイエス様を否定しました。パウロも彼はただイエス・キリストを神と信じている者を鞭で打ちたたき容赦なく牢屋に放り込んだ人物です。ヨハネも伝道に遣わされたとき、人々は彼の声に耳を傾けないことに腹を立て、天から火を下して焼き滅ぼしてくださいと言った人です。
そのような人たちがなぜ愛の人に変わったのか。それはイエス様が「わたしがあなたがたを愛した」と言われるのです。ですから、キリスト教が愛の宗教である、と言っても,私たちが神を愛する必要はありません。むしろ、まず自分が神様に愛されていると言うことを信じることです。信仰はそこから始まるのです。私たちが神を愛するのではなく、神が私を愛してくださる。私は神に愛されているんだ、と信じてください。
2,いのちを捨てる愛
愛といっても、人を好きになることや、自分が気に入っている人にだけよいことをする、というような愛ではありません。キリストが弟子たちを、また信じる私たちを愛される愛とは、自分を捨てる、いのちまでも捨てる愛です。ですから、キリストは弟子たちに、愛を求められませんでした。顧みを求められませんでした。まったくなにも要求されないのです。むしろ自らを与えられる方です。
実際には寝る間も惜しむことなく、病人をいやされ、死んだ者をも生き返らされ、苦しんでいる者を助け、痛んでいる者を慰め励まされました。ですから「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい」といつも招いてくださるのです。助けを、救いを拒まれることは一度もありません。
さらに大いなることは、私たちにいのちを与えてくださる事です。滅びから、私たちを救ってくださいます。
キリストが十字架にかかって死んでくださったのはペテロの裏切りも、パウロの迫害も、ヨハネの怒りをも十字架で赦すためでした。もちろん私たちのすべての過ち、失敗も十字架で赦されるのです。私たちはキリストの十字架によって赦され、そして新しいいのち、神の愛によって生きることができるのです。アーネスト・ゴードン著「クワイ河収容所」という本があります。「戦場にかける橋」と映画にもなりました。
その話の中で、捕虜収容所で「シャベルが1本ない」と監視兵が叫び、「全員死だ!」といったとき、一人の捕虜が「私がとりました」と言って殺されてしまいました。しかし後で調べたら数は合っていたのです。他の捕虜たちは、いのちを助けるために彼が犠牲になったことがわかったのです。それ以来捕虜たちは病人の世話をし、乏しい中にも食料を分け合い、互いに愛し合い、助け合ったのです。そして著者アーネスト・ゴードンは戦後牧師になりました。
殺伐とした中にあっても、誰かの死は他の誰かに命を与えます。罪のない者が罪ある者のために命を捨てるとき、その悲しみ苦しみが自分たちの罪を悟らせ、正しく生きる心に力を与えます。
キリストは十字架の死をもって、私たちに力を与え、愛に生きる者としてくださいます。