「キリストによる義」

2020年11/1 第一主日礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 

音声メッセージです。

 

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【聖書】ローマ人への手紙3章21~24節
:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

 

メッセージ概要

この手紙を書いたパウロは非常に信仰熱心な人でした。彼の立派さはピリピ3:4 ~6に記されています。ところが肝心の救いを受けていませんでした。救われていなかったのです。どうすれば私たちは救われるでしょうか。救いの確信はどこにあるのでしょうか。

1,聖書にあらわされた神の義

21節に「律法と預言者」と出ていますが、旧約聖書のことです。律法とは旧約聖書の最初のモーセ五書のことです。そして預言者とは、イザヤやエレミヤ、エゼキエルなどの預言書のことです。これらは旧約聖書を指しており、神様は神の義を聖書を通して現されています。しかし、聖書を読んですぐに神様の救いが分かるかというと、難しいと思います。パウロでさえ解りませんでした。私たちもなおさらのことです。それでは、どうすれば神の救いが解るのでしょうか。

2,イエス・キリストを信じる

それはイエス・キリストを知ることによって私たちは救われることができます。パウロはダマスコへクリスチャンを迫害しに行こうとしましたが、その途中で復活のキリストに出会いました。キリストに出会うことによって彼の生涯は変わり、信じることができたのです。そして彼は神の義が何であるのか、聖書が言っていたことが何かが、キリストとの出会いで解ったのです。
私たちはどうすればキリストに出会うことができるでしょうか。それは聖書を通してキリストに出会うことができます。そしてもう一つは、人の証しを通して、人に導かれてキリストに出会うことができるのです。アンデレがその見本です。兄のペテロをキリストの元に連れてきて、ペテロは信じ従っていったのです。アンデレの働きがなければペテロは救われなかったかもしれません。
ですから、私たちクリスチャンは、アンデレのように他の人にイエス様のことを紹介する者でありたいと思います。それが伝道です。

3,キリストによる義―救い

しかし、私たちは人を救うことができません。できるのは神様のみです。私たちは罪のために、神の栄光を受けることができませんでした。神の栄光とは、天国のことであり、永遠のいのちです。この世の栄光は、富や権力、名声などです。そのようなものを得て、豪奢に生活していても、この世の栄光はやがて消え去ってしまうのです。私たちは神の栄光を求めなければなりません。それを妨げているのが罪です。罪は神の栄光を損ないます。
しかし、そのような罪人を神様は愛されるのです。栄光を受けられないものを、栄光が受けられるようにして下さるのです。それが24節にある「キリストの贖い」なのです。それは十字架です。私たちが罪故に受けることができない、受ける資格もない、そんなものを贖っていくださる。神の子として下さる。それが十字架の力です。十字架は滅び行く者には愚かですが、救いに与る私たちには神の力なのです(Iコリント1:18)。受ける資格のない者に与えられる、それが神の恵みです。そしてキリストの十字架の故に一切の罪が赦されて、義とされる、神の子として認められ、天国を受け継ぐ者とされるのです。
その良い例が、十字架にともに架けられた一人の強盗です。彼には資格はありませんでした。しかし、十字架の上で彼はキリストを自分の救い主として信じました。ただそれだけでイエス様は「よくよくあなたに言っておく。あなたはわたしと共にパラダイスにいるのである」と約束されたのです。
それは、パウロもペテロも私たちもみな同じです。それはすべて信じる人に与えられ、何の差別もないのです(21節)。
私たちはどんなときでも、イエス様によって罪が赦されている、愛されている、そして御国の栄光に与ることができると、いつも信じていきましょう。