「心を新しくする」

2021年1/3 新年礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

音声メッセージです。

 

メッセージ動画はこちらからご覧いただけます。

 

【聖書】ローマ人への手紙 12章1∼2節
:1
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
:2
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 

メッセージ概要

 明けましておめでとうございます。 2021年最初の主日礼拝です。クリスチャン生活において礼拝ほど大切なものはありません。言わば信仰の中心となるのが礼拝です。その大切なことを聖書の中から見ていきたいと思います。

1,神に喜ばれる礼拝

 1 節には明確に礼拝のことが語られています。「あなたがたにふさわしい礼拝」とあります。私たちにふさわしい礼拝とは何でしょうか。ちゃんと設備が揃っている礼拝堂のことでしょうか。それとも素晴らしい賛美を献げるオルガンやピアノがあることでしょうか。それらも必要ですけれども、もっと大切なことは「あなたのからだを神に献げなさい」ということです。からだとは、あなたの肉体、あなたの存在すべてです。神を礼拝するとはあなたの全て、身体も時間もすべてを神様にお献げすることです。

ある牧師先生が町で偶然、なかなか礼拝に来ない信者さんに 会いました。その方は「結構忙しくて…、
でも心は教会に行っています。」と苦しそうに弁解したら、先生は「あなたのような方が増えれば、教会は幽霊信者で一杯になりますよ。からだも一緒に来てください。」と言われたそうです。教会は幽霊の集まりではありません。ちゃんと手足の付いた方が自分の全てを持って礼拝するのが神様の喜ばれる礼拝なのです。心だけでなく自分の身体も時間も全てを献げるのが神様の喜ばれる礼拝です。

 旧約聖書においては羊や牛の犠牲をもって礼拝しましたが、私たちは今、自分自身を神様にお献げするのです。それが神様 の喜ばれる礼拝です。
 そして 1 節初めには、「神のあわれみによって、あなた方に勧めます」とパウロは言っています。私たちが救われたのは、まったく神の憐れみによって救われたのです。自分が正しいから、良い人間だから、良いことをしたから救われるのではありません。まったく神の憐れみであり、神様が私たちを愛して下さっておられるからこそ、私たちの罪を十字架で赦し、今また私たちを喜んで受け入れて下さっているのです。


詩篇
51:16,17 「まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。神へのいけ にえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」これはダビデの悔い改めの詩篇です。表題にはっきりバテ・シバと通じた姦淫の罪を犯したと出ています。彼は自分の罪を言い表し、悔い改めたのです。私たちも同じです。神によって罪が赦された、十字架の許しを受けて私たちは礼拝することができるのです。


2,心を新たにする

 ダビデは神の憐れみによって、罪が赦され心が新たにされました。それにより彼は変えられたのです。もう二度と同じ過ちは繰り返しませんでした。それ以上に罪の恐ろしさ、また悲しさを味わい、それ 以上に神を信じることの素晴らしさ、罪赦される神の憐れみと愛を彼は受けて多くの賛美、詩篇を書きあらわし歌ったのです。今日私たちが詩篇を見る限り、ダビデによるとの表題を多く見ることができます。

 ですから私たちも変えられるのです。自分で自分を変えることができなくても、神様にはできます。神には何でもできるからです。大切なのは心の一新です。自分の心が新しくなることです。ダビデの知らなかった罪のゆるしの恵みを、私たちは新約聖書から知ることができます。Ⅰヨハネ 1:7 「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださ います」と約束されているのです。

十字架の血潮により私たちの心にある罪と咎 とが は洗い流され、真っ白になることができるのです。汚い身体でも石けんできれいになるのです。それ以上にキリストの血によって私たちの心は洗い清められます。心が洗い清められたら何が違うのか。それは何が良いことか、神様は何をしたら喜ばれるか、そのことが分かるのです。そして神様の喜ばれることを行うことができるようになるのです。それが礼拝による私たちの受けるべき祝福であり恵みなのです。それが霊的礼拝です。この世のものでは得られません。私たちは持っているものすべてをお献げし、さらに豊かな恵み、祝福にあずかりましょう。

最新情報をチェックしよう!