2021年1/24 第四主日伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】ペテロの手紙第一 2章24節
- 24:
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
メッセージ概要
キリスト教って、どんな宗教ですか?と聞かれれば「愛の宗教」と答えることができます。おそらくキリスト教から「愛」を取り去ったら何も残らないと思います。
1,愛の創造
私自身も今生かされているのは、神の愛以外の何ものでもないと思います。パウロも「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しい」(Ⅰコリント 13:2) と言っています。
聖書には天地創造のことが最初に出てきます。しかしいくら全てのものが完全に整っていたとしても、もし愛がなければまったく空しいものだと思います。天地創造の最後にはアダムとエバが造られましたが、神様は愛するものとして人間を創造されました。
2,神から離すもの―罪とその結末
エデンの園で何不自由に暮らしていたのですが、アダムとエバはサタンにだまされ、失敗しました。神のようになりたい、その心の隙にサタンはつけ込んで、園の中央にある木の実を食べたら神のようになれると嘘をつき、アダムとエバはだまされて、神様との約束を 破り木の実を取って食べたのです。 罪とはまさに、的外れな生き方です。神に従わない、自分の好きなように生きる、そのことによって実は、幸せになることを失ってしまっているのです。
アダムとエバは神から隠れました。それが罪の姿です。自分の身を隠す。罪を犯すなら、平安がない。もちろん心に喜びがない。いくら、物がなに不自由なくあったとしても、心に平安のない生活、喜びのない生活に生きる意味があるでしょうか。ですから、聖書には、「罪の支払う報酬は、死である」 ローマ(6:23) とあるのです。罪の結末は死であり、永遠の滅びな のです。どこに罪の解決はあるでしょうか。
3,キリストの愛
神から離れて、心に平安がない、喜びがないという人を救うためにキリストは来られました。私たちは自分で自分の罪を償えないのです。私たちの罪を償うためには、犠牲が必要です。キリストはまさに、私たちの犠牲となるために生まれた方です。その犠牲とは十字架です。
十字架とは犯罪人が死刑にされる道具でした。しかしキリストは罪を犯されませんでした。犯されないのに、私たちの罪をその身に負われて、十字架の上で死んで下さったのです。その死によって、私たちが罪を離れ、キリストの義に生きるためなのです。
こんな話を聞きました。「アメリカの小さな村の小学校。環境悪く、荒れ放題。1人のクリスチャン教師が赴任。しかし手が着けられなかった。規則を作った。嘘ついたらむち5つ。けんかをしたら7つ。盗んだらむち 10 。ところがある日、弁当がないと子どもが騒ぐ。見つかったのは 1 年生。親は酒飲み、ほったらかし。おなかをすかせ思わず、弁当に手をつけ。食べてしまった。みんなかわいそうに思った。しかし罰は受けなければいけない。ところが、取られた子どもが代わりに受けると言い、鞭を受けた。1 年生も泣き 、先生も、みんな泣いた。」
キリストは、私たちの罪のためにむち打たれ、十字架に架けられたのです。それは、私たちが罪を離れ、神の義―罪のゆるしに生きるためです。
その打たれた傷によって、私たちは罪が赦され、心は癒やされるのです。ハレルヤ!