2021年10/3
第一主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】 マタイの福音書 第5章 38~44節
- :38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
メッセージ概要
今日の聖書の箇所にはよく知られている言葉が出てきます。例えば「目には目を歯には歯を」 (出エジプト 21:24)「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」これらは人に復讐することについて語られています。
やられたらやり返す、報復するのが人間の心情かと思います。しかしイエス・キリストは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われるのです。
1,人間の限界
「目には目を歯には歯を」は古代ハムラビ法典にも出てきますが、同体復讐法と呼ばれるもので、そこまではやってもよい。しかしそれ以上のことをしてはいけないと法律で定められたものであったのです。たしかにそれで、抑止されることがあったかもしれません。しかし心情的には納得できないことがあったのではないかと思います。
如何にして、人間の憎しみや復讐 の連鎖を断ち切るのか。イエス・キリストは語られています。「右の頬を打つ」ことは中近東では侮辱的な行為であると言われます。手のひらでたたくのではなく手の甲で軽くはねるような動作で、それだけ相手が弱い者であることを示すのです。そのようにされて腹を立てない男性はいないようです。
やられたらやり返す、そのような復讐心が心の中で芽生えてきます。いったい誰がそれを押さえることができるのか。私たちの力ではできないことです。
「 1ミリオン行くように強いる者」とありますが、それは当時のユダヤを支配していたローマ人のことです。荷物を運搬するのに、近くにいるユダヤ人のロバや荷車を徴用することはよくあったようです。もしそれに従わなければひどい目に遭わされる、ですからほとんど泣き寝入りの状態で耐えていました。そのため 、やがてローマに蜂起し、ついには紀元 70年にエルサレムは滅んでしまったのです。
しかしここでは、社会的な悪に対することよりも個人的な問題に関してイエス・キリストは話されています。「あなたを告訴して、下着をとろうとする者には、上着も取らせなさい」ということは、当時お金を借りるとき、上着を担保にすることは禁じられていました。上着は暑さ寒さを防ぐものであり、毛布の代わりともなって貧しい者には生活に欠かせないものだったからです。
2,積極的な愛
しかし、イエス様は「上着をも取らせなさい」「 1ミリオン強いられたら 2ミリオン行きなさい。」 「求める者には与え、借りようとする者に背を向けてはならない」と言われるのです。
それは私たちが、ただ当然のことだけをするのではなく、もっと積極的に人を愛することを言われたのです。
「あなたの隣人を愛し、敵を憎め」といわれていたのですが、当時の理解では、同国人や自分によくしてくれる人、理解のある人を助けるくらいの意味でした。逆に敵であれば憎む、それが当たり前であるという風潮だったのです。それなら今日も変わりませんし、憎しみの連鎖は断ち切ることができないのです。
そのときにイエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことを言われたのです。それは積極的な愛です。愛されたから愛するという消極的な愛ではありません。たとえ自分が愛されなくても愛する、敵をも愛する愛です。
イエス・キリストは言われただけではなく、実際に行われました。それは十字架の上で成し遂げられたのです。十字架の上で、自分をはり付けに した人たちに対して「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。それがキリストの愛なのです。
キリストの十字架の赦しによってこそ、私たちもすべての罪が赦され、憎しみの連鎖は断ち切られるのです。十字架には力があります。なぜなら、キリストは死の中からよみがえられ、私たちのためにいまもなお祈られているのです。キリストの力によって私たちは赦され、相手を赦すことができ、キリストの愛によって私たちは敵をも愛することが可能となるのです。
その愛を私たちのうちに満たしていただき、キリストの愛によって生きる者とさせていただきましょう。