2022年2/6 第一主日礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 マタイの福音書 11章 29~30節
- :29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
メッセージ概要
今、コロナ感染が急激に増え、不安な中にありますが、神様は私たちに絶対的な魂の平安を与えて下さいます。
1,くびきを共に負う
28節の御言葉は有名です。「重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とキリストは招いておられます。そしてキリストは私たちを休ませて下さいます。
キリストが休ませて下さる中には、回復させる、またリフレッシュする意味もあります。私たち自身の心がリセットし、よしやろう、という意欲がわき上がってくるのです。
ですから、「休ませてあげます」と言われるのはもう何もしない、ということではありません。
それでは何をするのか。 2つのことがあります。一つは、キリストのくびきを共に負う、ということです。くびきとは、牛が畑を耕すとき、鋤や鍬を引くときに首にかける器具のことです。普通は二頭立てのくびきを二頭の牛で負い、引っ張って行くものですが、ここではイエス・キリスト と共にくびきを負い、そして共に重荷を負うことです。ですから、自分の重荷は自分だけで背負うのではなく、イエス様がともに担って下さるのです。一人で負うより二人で負うなら重さは半減します。より軽くなります。
ですから、信仰は一人で信じる孤独な戦いではなく、キリストがいつも私と共にいて、この問題も背負って下さるのだ、一人ではないという信仰が必要です。
キリストは大工であったと言われていますが、大きな家を建てる大工というよりは、農機具を作る工人であったと思われます。「わたしのくびきは負いやすく」とは、なめらかでごつごつしていなく、身体に負担がかからないような器具であったかと思われます。イエス・キリストは私たちが重荷を負わなければならないときにも、負担がかからないように私たちを守って下さる方なのです。
2,キリストに学ぶ
イエス様は「わたしから学びなさい」と言われます。これが魂に安らぎを得る 2つめのなすべきことです。
キリストに学ぶことは、机の上で勉強することではありません。頭に知識を詰め込むことではありません。学ぶとは、「まねる」という言葉から来ているとも言われます。キリストから学ぶことは、キリストをまねる、キ リストに習うことです。キリストが生きられたように自分も生きる、生活することです。 キリストは自ら、心が柔和でへりくだっていると言われました。ですから、私たちもキリストのように心が柔和、優しく穏やかである。このことを意識する者でありたいと思います。しかし、キリストから離れては、それはできません。
二頭立てのくびきには意味があります。経験の浅い牛と、熟練の牛をつないで一緒に畑を耕させるそうです。若い牛は力任せにやり、疲れ果ててしまいますが、熟練している牛はペースと力配分を心得、ゆっくりとしかし確実に耕していく そうです。ですから私たちも、自分は一人ではない、イエス様が自分と一緒にくびきを負って下さり、イエス様と共に重荷を負わせていただくんだという信仰が必要です。
そして何よりも、イエス様は私たちより強く優しく思いやりがあり、それこそほとんどの重荷を背負って下さるのです。イザヤ 46:4「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」と約束されています。
ですから心配することはありません。イエス様が必ずあな たを背負い、そして魂に安息と力を与えて下さいます。