「復活の望み」

2022年4/17 第三主日
イースター礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】 ローマ人への手紙 4章 16~25節
:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人 々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認 めても、その信仰は弱まりませんでした。
:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
:25 主 イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

 

メッセージ概要

 皆さん。イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの御復活を共にお祝いできることを心から感謝いたします。
 キリストが死の中からよみがえられたことは、私たちの大きな希望です。なぜなら、キリストの復活によって私たちも死の中からよみがえるからです。新しいいのちの希望が私たちに約束されています。

1,アブラハムの信仰に倣う
 アブラハムはかつて偶像礼拝の盛んな町から父親と共に旅立ち、父親の死後も旅を続け創造主である神様に従う人となりました。

 彼は信仰によって神様に祝福され「多くの国民の父」となったのです。
 その神様の祝福は、人種を越えて「アブラハムの信仰に倣う人々」にも、すなわち信じる私たちにも保証されるのです。ですから私たちはただ信じるだけでいいのです。
 

 アブラハムも、信じて義―神様の前に正しいと認められたのです。彼は神様に祝福され豊かな人となりました。持ち物においても、また子どもにおいても彼は豊かな人となったのです。

2,アブラハムの信仰
 それでは彼の信仰はどのようなものだったでしょうか。一つのことは死者を生かす。復活の信仰です。彼はひとり子イサクを献げなければならないときがありました。その時、彼は迷いもなく、イサクを殺そうとしたのです。その時、神様は彼の手を止められました。その信仰を見て神様はアブラハムを正しいとされたのです。ヘブル書 11:19にもでていますが、復活の信仰が彼にもあったのです。

 もう一つは希望の信仰です。彼は希望が持てたのです。いつ希望が持てたのか。 18節に「望み得ない時に」とあります。 20節には「不信仰になって」とでています。彼は少なくとも嘘をついたときが、2回あります。自分の奥さんを妹だと言って相手をだましたのです。
その時に神様の災いがその地に起こったのです。真実が明らかになりました。

 そしてもう一つの失敗は、彼は約束の子を待たずに、女奴隷ハガルによって子を得たことです。それはまた後の災いにもなりました。ですから、彼は完全に良い人ではなかったのです。
いわば神を裏切り、不信仰に陥ってしまう危険があったのです。しかし、それでも彼は神様を信じること、神様にすべてを明け渡して従うことを止めなかったのです。失敗しても信仰を捨てないことです。

 イエス様の弟子のペテロとユダの違いは、信仰があったのかなかったのかの違いであったと思います。
 アブラハムは望み得ない時に、望みを抱いて信じ (18節)、神には約束したことを実行する力がある (21節)と信じたのです。

3,私たちも信じる
 22節には「だからこそ」とつながります。その信仰があって、アブラハムは義と認められた。失敗しても、おまえは正しいと神様に受け入れられたのです。
 それは私たちも同じです。失敗する。うそも方便、神様が願っておられるのと反対の道に行
ってしまう。
 預言者ヨナのように。それでも救われるのです。神様は私たちを愛し、赦して下さるのです。ですから私たちも神様の祝福に預かれるのです。

 それは「イエスを死者の中からよみがえらされた方を信じる」ただそれだけです。イサクを献げたアブラハムと同じ信仰です。私たちはその信仰によって、救われるのです。神様に義と認められるのです。

 キリストの十字架は何のためだったのか、「私たちの背きの罪のゆえに」です。
 神様に背を向けて、自分勝手にしていたのです。そのような私たちをも、神の前に義と認められるために、キリストは身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。

 たとえ自分が罪を犯して不信仰に陥ったとしても、約束したことすなわち、罪の赦しと神の子として下さる約束は必ず実行して下さる。信じるなら罪は赦されるのです。
 その証拠をキリストの復活によって明らかにして下さいました。

 私たちも信じて、罪の赦し―救いの約束を、そして素晴らしい神の栄光、祝福に与らせていただきたいと思います。

 

 

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