「教会の奥義」

2022年 7/10
第二主日 礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】 エペソ人への手紙 5章 21~33節
:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。
:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
:23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。
:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のた めにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
:27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
:28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
:29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを 養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
:33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

 

メッセージ概要

 このエペソの手紙は、一言で言うなら教会とは何か。どのようなものなのかを私たちに知らせています。今日は「教会の奥義」と題を付けましたが、32節に「この奥義は偉大です。」とパウロは言いました。教会の奥義とは何か。それは、キリストと一体である。キリストから離れてしまえば、教会のいのちはなくなるし、キリストの目的は教会である。教会はキリストにとってなくてはならない存在である。「ご自分の血をもって買い取られた神の教会」である(使徒 20:8)。その深い関係性がこの手紙を通して解るのです。

1,キリストに従うように
 パウロは、夫と妻の関係を語りました。「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と勧めています。ここで使われている「従う」という言葉は、奴隷が主人に従うようなものではありません。力の強い者に弱い者が従うようなものではありません。むしろ全幅の信頼を持って、お任せします。委ねます。思し召しの通りにします。と言うことです。これはマリヤが御使いに「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と従って行った信仰と同じようなことです。マリヤは信仰を持って主に従い、神のひとり子を生んだのです。従う信仰なくしてそれは出来ませんでした。

 ですから、従うにも信仰が必要です。21節には「キリストを恐れて。」とあります。キリストを畏れ敬うその心を持って従うと言うことです。

 その従順は、教会にも必要なことです。教会とは何か。それは、私たちお互い、キリストによって救われた者の集まりです。30節に「私たちはキリストのからだの部分だからです。」とあるように、キリストの身体です。そして、その頭はキリストご自身です。ですから私たちは、キリストを共に頭と仰ぎ、畏れを持って21節にあるように「互いに従い合う」ことなのです。ですから 私たちも教会にあって、この御ことばどおりに、まず主に従う者、主に仕える者でありたいと思います。

2,キリストが愛されたように
 そして夫に対する勧めが25節にあります。「キリストが教会を愛し…ご自分を献げられたように、…妻を愛しなさい。」とあります。この愛は、主体的な愛、積極的な愛、無条件の愛です。たとえ奥さんが岡目であろうが、どうであろうが、愛するという愛です。しかも 「ご自分を献げる」とあります。それは十字架の愛です。相手の罪を身代わりに受けて自分が死ぬという愛です。その愛によって私たちは救われたのです 。十字架の愛なくして教会の存在はありません。教会から十字架の愛がなくなったら、何の意味もないのです。十字架の愛があるからこそ教会は存在するのです。

 26節には「みことばにより、水の洗いを持って」とありますが、聖書のことばを通して私たちは救われ、バプテスマによって信仰を告白するのです。それは「教会をきよめて聖なるものとする」とあります。私たちはいつも、イエス・キリストの十字架の血潮を受けて、心がきよめられている。何の邪心や自己中心的な思いにとらわれていない。キリストの前にへりくだっているという思いがあるでしょうか。御子イエスの血は私たちをきよめる力があります。
(Ⅰヨハネ 1:7) この十字架の血潮によって私たちはやがて、裁かれる主の御前に立つ者となるのです (27節)。

 キリストは私たちを、ご自分を愛するように愛されます。自分を愛さない者はいません。キリストは不完全な愛のないような私たちでさえも、深い愛情を持ってたましいを養い育てられるのです。その目的は私たちがキリストに似た者となることです。キリストと教会は一体です。これはまさに神の奥義、神のみ業です。真理の御聖霊が私たちを助け、この事の理解を与えて下さいます。

 私たちはみことばを通し御聖霊によって「私は神に愛されている」と堅く信じ、信仰によってキリストに従う者、仕える者とさせていただきましょう。

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