「神の約束」

2022年 8/21
第三主日 礼拝
ー西本 耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】 へブル人への手紙 6章 13~20節
:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
:14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のよう なものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

 

メッセージ概要

 今日の聖書の箇所には「約束」ということばが出てきます。「約束」は将来与えられることに関係することが多いと思います。
神様はアブラハムを通して約束を与えられました。それは14節に「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」という約束です。その約束は私たちにも与えられています。

1,アブラハムに与えられた約束
 アブラハムはもともと四大文明発祥の地の一つ、メソポタミア、カルデアのウルと言うところに住んでいました。しかし父親のテラと共にカルデアを出て、父親の死後、神様は彼に臨まれ「わたしの示す地に行きなさい」といわれたのです。

 アブラハムはそこがどんなところか知らないまま、神様が示されるとおりに従って言ったのです。ですから、信仰とは見えるから信じる。理解できるから信じるのではありません。とにかく、神様が示される、語られるところに従って行く。それが信仰です。ですから、アブラハムは信仰の父と呼ばれています。彼の生き方を見るなら、信仰とは何かがわかってきます。

 彼の生涯は荒野に天幕を張って生活することでした。いくら財産が増え、多くのものが与えられても家を建ててそこに住むことをしなかったのです。彼が目指していたのは地上のものではありませんでした。天の都、天国を目指して生きていたのです。それは私たちも同じではないかと思います。私たちも地上では限りがあります。永遠にこの世に生きることは出来ません。やがて死ぬときがあります。その後どこへ行くのでしょうか。私たちにもアブラハムと同じように天の御国、天国が備えられているのです。

ですからアブラハムと同じように、地上では旅人であり、寄留者であるのです。そう思えば人生の旅も気が楽になるのではないでしょうか。何かを成し遂げなければならない。財産を築かなければならない。良いことをしなければならない。そうした思いから解放され、それ以上に素晴らしいものを神様は与えて下さるのです。

2,神が与えて下さるもの
 神様はアブラハムに与えると約束されたものが2つあります。
一つは祝福です。祝福とは神様が与えて下さる幸いです。もっと簡単に言えば、持ち物が増える豊かになることです。外敵から守られ安全に暮らせることで す。神様は彼をあらゆる苦難から守られ、そして持ち物を多く増やされました。持ち物が多くなりすぎて、甥のロトとも分かれて彼は山に行き、ロトは肥沃な低地に住みました。ところがロトはトラブルに巻き込まれ滅びそうになったときアブラハムに助けられたのです。そのように神様はアブラハムに祝福を与えられました。

 そして二つ目は「大いに増やす」それは子孫が多く与えられることです。

 今日アブラハムの子孫は、広い意味で彼の信仰を受け継ぐ人は20億人以上います。神様が約束されたとおりです。ただしそこに信仰の試練がありました。それは100才にして与えられた一人息子イサクを献げよと神様は言われました。それは彼にとって大きな試練であったと思います。しかし彼は神様に従ったのです。神様は大いに増やすと約束された、彼は信じ、イサクを献げ、神様はアブラハムの信仰をよしとされ、「大いに増やす」ことを実現されたのです。

3,約束の相続者
 実はこの約束は私たちに与えられています。私たちは「約束の相続者」です。信仰を受け継いでいるのです。アブラハムに与えられた祝福は私たちにも与えられているのです。神様は私たちにも約束され、保証を与えておられます。それが聖書です。 この一冊に神様の約束が記されています。神様ご自身の御ことばが保証となり、私たちも天の御国に凱旋できることを約束しているのです。この事は「たましいの錨」のようなものだとヘブル書の記者は言っています。この世に流されない、信仰の内にとどめられる大きな力です。

 幕の内側に入っていくとは、神殿の至聖所に入れることを意味しています。そこは、年に一度大祭司が犠牲を献げるところですが、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたとき、神殿の幕は上から真 二つに裂かれ、開かれたのです。

 だれもがその聖所に入り、罪のゆるしの恵みにあずかることが出来るのです。救いの道が私たちに開かれたのです。

 ですからイエス・キリストは真の大祭司としていつでも私たちを救ってくださり、アブラハムを大いに祝福したメルキゼデクのようにイエス・キリストは私たちに祝福を与えてくださる事が出来るのです。

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