「十字架のいやし」

2023年 9/3
第一主日
振起日・聖餐礼拝

ー西本耕一牧師ー

 

 


 

礼拝動画はこちらからご覧いただけます。

 

【聖書】
イザヤ書 53章4~5節
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 

メッセージ概要

 

 今日は振起日礼拝です。アメリカで9月の初めに「Rally Day」ラリーディと呼ばれる礼拝が教会学校で持たれました。長い夏休みが終わり収穫の秋を迎える、私たちの信仰をもう一度神様によって「回復」させていただき奮い立たせていただく大切な礼拝です。

 私たちもイエス様の愛によって信仰を強くさせていただきたいと思います。

 

1,キリストは私たちを負われる

 イエス・キリストは「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。

 キリストが私たちのところに来てくださった一つの目的は、私たちを背負って下さることです。それがたとえ病を負い、体が痛み、何の役に立たないような者であったとしてもです。むしろそのような者をあわれみ愛して下さる方です。キリストは病の私たちを、痛んでいる私たちを背負って下さる方なのです。

 聖書の中に、目の見えない盲人が私を憐れんで下さいとキリストに近づきました。イエス様はわたしに何をしてほしいのかと尋ねられると、目が見えるようになることですと答え、直ちに目が見えるようになったのです。

 そのようにいやされたのは、ただ物理的なことや医学的なことだけではなく、キリストの愛とあわれみが表されてことによるのです。

 ですから、私たちももし病がいやされたい、痛みを取り除いていただきたい、そう願うなら「私を憐れんで下さい」とキリストの前に出ることです。

 4節に「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」とありますが、それはキリストの十字架の姿です。ローマ時代、十字架は大きな罪を犯した囚人に与えられた死刑の道具でした。

 しかし、キリストは一つも罪を犯されませんでした。なぜキリストは罰せられ、打たれ、苦しめられたのでしょうか。

 

2,キリストに癒やされる

 なぜ私たちは病気になるのでしょうか。また痛みを覚えるのでしょうか。

 様々な原因があります。5節には「背き」「咎」とあります。

 それは神に背くこと、神を神と思わない。神なしに生きる、神を無視する。それが背きです。咎とは、とがめること、罪を犯すことです。神に対して罪を犯す。それは私たちの心の中でしかわからないことです。しかし、その罪・咎、背きは、私たちの生活に現れてきます。不摂生をしたり、生活が不規則、生活が乱れてしまうことに現れます。そしてそれは私たちの肉体にも影響を及ぼし、現れてくるのです。病気になるのがその一例です。もちろん、すべての病気は罪によるとは言えないのですが、私たちは健康的な生活をする必要があります。

 キリストは病の人を直され苦しんでいる人を癒やされました。
「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人であると言われました。」イエス・キリストは私たちを苦しみから救うために、私たちを癒すためにこられたのです。

 十字架には力があります。「十字架の言葉は、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(Ⅰコリント1:18) とパウロは言いましたが、十字架の上でキリストは「父よ、彼らをおゆるし下さい」と私たちの罪のために祈られたのです。それが5節にある「背きのために刺され、咎のために砕かれた」私たちの罪のために十字架にかけられたのです。

 ですから、私たちがキリストの十字架を信じるなら、十字架によって罪を赦して頂けると信じるなら、平安が与えられます。心の平安、安らぎは、十字架の赦しから来るのです。

 その十字架の打ち傷、流された血潮によって私たちの罪は赦されたのです。

 十字架には私たちを癒やす力があります。十字架によって、キリストの十字架を信じ、心も魂も体も癒やされ、新しいいのちを与えていただきましょう。

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