「ガリラヤで会おう」マタイ 28章1∼10節

2024年 3/31
第五主日 イースター
礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】
マタイの福音書 28章1~10節
:1
さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
:2
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
:3
その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
:4
その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
:5
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
:6
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
:7
そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
:8
彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
:9
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
:10
イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

 

メッセージ概要

 

 皆さんイースターおめでとうございます。キリストの御復活をともにお祝いでき感謝です。
 キリストが復活されなかったらキリスト教は存在しなかったと思います。逆に、キリストが復活されたからこそ私たちは信じることができ力が与えられます。キリストの復活が私たちの信仰にとっていかに重要であり、信仰の根幹であるかを見ていきたいと思います。

 

1,復活―神の約束の証し

 イエス・キリストは、以前からご自分が十字架にかけられ死んで三日目によみがえられることを弟子たちに話されました。また、聖書にもキリストに関するメシア預言は300以上あると言われています。

 しかし、約束されても現実に起こらなければ何の意味もありません。ところが復活は起きたのです。

 マグダラのマリアや他の女性たちが墓に行くと、驚くことが起こりました。地震が起こり御使いが現れたのです。ローマ兵たちは恐れましたが、女性たちは御使いが「イエスは死人の中からよみがえり、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」と念を押すように語ったのです。

 しかも何と、イエス様ご自身が現れ、女性たちは足を抱き、イエス様を礼拝したのです。
このマタイの福音書が書かれた時代、そのイエス様に会った、復活のイエス・キリストを見たという人は大勢いました。そのうちの一人パウロは、コリント書の中で一度に500人以上に現れたと証ししています。もちろんパウロも復活のキリストに会って人生がまったく変えられたのです。8節には「恐ろしくはあったが大いに喜んで」と女性たちの気持ちが表れています。また弟子たちに夕方現れたときは「弟子たちは主の見て喜んだ」と、復活のキリストに会う人はみな喜びに満たされるのです。


2,復活―罪の赦しの確証

 なぜ喜ぶことができるのか。その一つは、罪の赦しです。
罪過ちが赦される。キリストの復活によって、この事が確かなものとされるのです。

 弟子たちは恐れていました。不安がありました。ところが復活の主にあって、イエス様の方から、弟子たちや女の人たちに呼びかけられています。

 9節の「おはよう」ということばには「喜べ」という意味があります。弟子たちに会われたときもシャローム平安があるようにと言われ、弟子たちは喜んだのです。復活のイエス様は罪を問わない、裁かれない。私たちを愛し、私たちを赦して下さる方です。

 その主がともにいて下さる、これほど心強いものはありません。

 頼りになる方はイエス・キリストのみです。キリストの十字架は、罪の大元である悪魔を十字架で滅ぼし、復活されて私たちを罪の縄目から解放し自由にしてくださるのです。
ですから、私たちは罪を赦して下さる、主をあがめ喜ぶことができるのです。


3,復活―再会の希望

 御使いは女性たちにイエス様は先にガリラヤに行かれ、弟子たちにそこで会えることを伝えるように言いました。そして復活のイエス様も、「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」と言われたのです。
それはイエス様の弟子たちに対する信頼です。

 「わたしの兄弟たち」 と言われました。ご自分と一緒にあつかって下さるのです。

 そこにイエス様の愛が溢れています。事実、弟子たちの失敗を一言も言われませんでした。むしろ将来を彼らに託されました。何よりも大事なことは「会える」ことであり、キリストの約束は20節にあるように「いつもあなたがたとともにあります」それが私たちにも約束されているのです。

 十字架で死なれた方は、死に打ち勝ちよみがえられ、私たちの心に生きておられる。
ペテロは「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています」(Ⅰペテロ1:8)と手紙に書きました。

 私たちは心にイエス・キリストを信じ、希望を持って活かしていただきましょう。

 

 

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