「神の御計画」

2020年8/9 第二主日礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 

音声メッセージです。

 

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【聖書】エペソ人への手紙 1章4~10節
:4
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
:5
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
:6
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
:7
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
:8
この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
:9
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
:10
時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 

メッセージ概要

今読んだ聖書の中に、計画という言葉が出てきます。神様は、天地万物を創造されました。決して、勝手気ままに創造されたのではありません。そこには神様の素晴らしい計画があったのです。そして、神様は現在それを実行されています。

1,神の選び
神の御計画とは何でしょうか。それは天地創造前から、私たちを選んで下さった。とパウロはいっています。なぜ私たちは選ばれたのでしょうか。選ばれる価値があったのでしょうか。ありませんでした。パウロもキリスト教の迫害者でした。殉教者ステパノの殺害にも荷担していました。そんな彼が選ばれたのは何か。 5 節を見るなら、神様は愛をもってキリストによりご自分の子にするといっておられるのです。

私は韓国の孫良源牧師の話を思い出します。かつて韓国で朝鮮動乱が起こった時、共産党の青年に孫良源牧師の二人の息子が殺害されました。ところが何と、孫良源牧師は犯人の青年の釈放を願い、その青年を養子にして、立派なクリスチャンに成長させたのです。彼は後「愛の原子爆弾」と呼ばれました。神の子とされる、これほど大きな栄光はありません。 6 節には恵みの栄光とありますが、恵みは受ける価値・資格のないものが与えられる神の幸いです。絶対的な幸福です。パウロはまさにその恵みにあずかり、ローマの牢獄の中にあってもそのことを感謝していたのです。その喜びを、エペソの手紙や他の獄中書簡で書き表したのです。ですから、私たちが救われる、神の子とされるのは神の大いなる恵みであり、神の愛の選びです。ヨハネ 15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」と神様は私たちに言われるのです。

2,キリストの血による贖い
神の選びは、単に子とされるだけのものではありません。 4 節には「御前に聖なる、傷のない者にしよう」との約束があります。それは 7 節の「キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」に基づくものです。血による贖いとは、十字架で流されたイエス・キリストの血潮のことです。なぜなら、キリストが十字架に架けられなければ、私たちの罪は赦されなかったということです。もし、罪が赦されなければどうなるのか、それは私たちが永遠の滅びに行ってしまうということです。

私たちの罪のゆるしは何か。キリストが十字架で身代わりに、いのちをもって私たちの罪を償って下さるということです。それが贖いです。キリストの十字架によって私たちの罪はすべて赦されるのです。ですから、教会のシンボルは十字架なのです。そして私たちの信仰の土台も十字架です。これが神の愛の豊かさです。罪を十字架によって赦して下さり、罪に汚れたものを清めて下さり、その打たれた傷も十字架の血潮 によっていやして下さるのです。8 節には神様は「それを溢れさせ」と言われます。私たちには、あふれ出る恵みがあります。罪のゆるしの恵みは、これでもかこれでもかと、何度でも十字架の血潮によって赦され続けるのです。

3,キリストにあって一つとなる
私たち一人一人は、個性があり人格があります。一人一人違うものです。しかしキリストはその違うお互いを一つとされます。それは十字架によって、私たちの心の垣根を取り払い、十字架の死によって、私たちにゆるしをあたえ、私たちは一つとなることができるのです。地上にいる私たち も互いに、キリストにあって一つとなりますが、神様の計画は遠大です。「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」 (10 節) やがてその時が来ます。天にあるもの地にあるもの、すべてのものが一つとなるのです。私たちは、死んで滅び行くものではなく、キリストの十字架のゆるしをいただいて、罪によって分けられていた者、隔てられていた者が一つとなることができるのです。それが教会の奥義なのです。