「ここに真の愛がある」

2020年8/23 第四主日伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 

音声メッセージです。

 

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【聖書】ヨハネの福音書 4章9~10節
: 9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

メッセージ概要

この手紙を書いたイエス様の弟子ヨハネは愛の使徒と呼ばれました。なぜならこの手紙を通して最も伝えたかったことは、「神様は愛である」ということでした。柏原教会も、以前の会堂はレンガ作りの酒蔵を改装したものでした。その会堂の壁面の所には白ペンキで「神は愛なり」と書かれてありました。ですから、今も垂れ幕には「神は愛です」と書かれています。電車の中からよく見えるようです。これを目印にして、何人かの方は教会に来られました。
私は、壁面の「神は愛なり」は見えていなかったのですが、教会に来て神は愛であることがよく分かりました。それは皆さんが親切にして下さったからです。特別なことはありませんでしたが、声をかけて下さり話される中に、この世のものとは違う暖かさを感じました。それが神様から来ていることは後になって分かりました。

弟子のヨハネも初めは愛のことが分かりませんでした。イエス様の素晴らしさを人々に伝えましたが、受け入れてくれない人たちに対しては、イエス様に「天から火を降らせ焼き滅ぼしてしまいましょう。」と言ったくらいに気が短く 、ボアネルゲ―雷の子と呼ばれる程でした。それではなぜ、彼は愛の使徒と言われるようになったのでしょうか。彼は修行をしたのでもなければ、一生懸命勉強をしたのでもなかったのです。彼がやったことは何かというと、「信じた」ただそれだけです。彼は真の救い主、神であるイエス・キリストを信じることによって、怒りから愛へと変えられたのです。なぜなら、真の神様の本質は何かというと、愛です。神は愛なのです。人から愛される必要はありません。なぜなら、愛想のものだからです。愛の塊です。そんなちっぽけなものではありません。比べ ようのない大きな愛です。

たとえば太陽は火の塊です。近づけば、黒焦げになり焼けて無くなります。とてつもない火の塊です。神様は愛の塊であり、人間から愛される必要は全くないのです。しかし、人間は愛される必要があります。むしろ愛がなければ生きてはいけないでしょう。愛がなければ滅んでしまう存在だ、と言えるのではないでしょうか。言わば、月のような存在です。月は自分では光りません。太陽の光を受けているから、明るく輝いているのです。でも、太陽の光を受けなかったらどうでしょうか。真っ暗です。

私たちも、神様の愛を受けなかったら 、心は暗くなってしまうのです。しかし、真の神様は、創造主です。私たちにいのちを与え、愛を示して下さいます。どのようにして愛を現したのか。それは一人子キリストをこの世に遣わし、愛されたのです。キリストは病の人を癒やし、遊女や収税人といわれる人たちの友となり、彼らにも愛を与え慰め励まされました。そして、究極の愛は何かというと、自分を憎む者をも愛し、赦し、受け入れるという愛です。その愛はどこで現されたのでしょうか。十字架です。十字架の上で、イエス様は自分を十字架に付けた人たちのために、彼らを赦して下さいと 祈られたのです。そして、父なる神様は、この十字架の愛故に、罪のささげ物としての十字架のキリストの故に、罪人たちを赦されたのです。それゆえ「ここに愛があるのです」とヨハネは十字架に架かって死なれたイエス様の姿を見て証ししたのです。そして、彼はイエス様の十字架によって愛の使徒と変えられたのです。

クリスチャン新聞福音版 9 月号に、豊田龍彦先生のご長男の証しが掲載されています。豊田龍彦先生は 33 才の若さで祈りのうちに天に召され、ご家族も大変な苦難の中を通られたのですが、神様の大きな愛により祝福が与えられ、さらに 、神様の救いの御業がご家族を通してなされているのは素晴らしいことです。神は全能の神であり、死を乗り越える力そして、勝ち得てあまりある勝利の喜びを私たちに与えて下さいます。私たちは、真の愛そしていのちを豊かにいただいて、神の愛の中に生きる者とさせていただきたいと思います。