「キリストの賜物」

2021年12/12 第二主日
第三待降節 主日礼拝
ー西本耕一牧師ー

【聖書】 エペソ人への手紙 4章 7~11節
: 7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
: 8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」
: 9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。
:10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

メッセージ概要

教会にはさまざまな人が集まっています。しかしバラバラではありません。一致があり調和がとれています。エペソ人への手紙はその教会の姿を私たちに明確にしています。

1,一人ひとりに与えられる恵み
 教会では頭であるイエス・キリストによって私たちは一致できます。それぞれの賜物や役割は異なりますが、キリストにより一つとなることができるのです。それはキリストによって私たち一人ひとりが罪を赦され、神の子とされたことに他なりません。ですから、たとえ与えられた賜物が違っていても、働きは異なっているとしても私たちは一つであるのです。そして、私たち一人ひとりは完全な者ではありません。お互いが相互に助け合って生きているのです。自分を捨てるというキリストの十字架の愛によってお互いが生かされるのです。

 神様は私たち一人ひとり、その賜物の量りにしたがって、恵みを与えられます。私たちの器は異なります。大きな器もあれば小さな器もあります。この世は比較の世界ですが、教会の中は違います。神様はどれほどの恵みを私に注いで下さるかが問題です。
神様の恵みは、受けるのにふさわしくない者に、これでもかこれでもかと一杯になるほどに幸せを与えて下さいます。

 この手紙を書いたパウロは大きな器であったと思います。彼は詩篇 68篇19節を引用していますが、キリストが復活され天に昇って行かれるとき捕虜を連れて行きとあるのですが、まさに彼はキリストの捕虜、下僕となった人です。

 彼は自分の罪が十字架によって赦されたことに感激し、囚人となってローマまで行き殉教しました。「神は贈り物を与えられた」、とありますが、神は愛の贈り物を、パウロにも、私たちにも与えて下さっています。それはひとり子イエス・キリストです。

 「神はそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された」(ヨハネ 3:16)通りです。ですから私たちは与えられた賜物以上に、神の恵みが豊かに与えられることを期待し、恵みに預かりたいと思います。

2,すべてのものを満たす方
 神様は私たちにそれぞれ賜物を与えられるとともに、恵みを注がれる方です。10節には「すべてのものを満たすために」と目的が記されています。神様の私たちに対する目的の一つは「私たちを満たす」ことなのです。

 私たちは神によって満たされることを経験することができます。

 あのパウロも神によって満たされました。確かに律法に忠実に、そしてパリサイ人としてまじめに生活していたのですが、心は満たされていませんでした。むしろ虚しく、心は怒りで一杯で、恵みで満たされたクリスチャンを迫害していたのです。愛とは程遠い生活をしていたのです。しかし、復活のキリストに出会い人生は変えられました。愛に満たされ喜びに輝いて生きる人になったのです。たとえ牢獄に入れられ、劣悪な環境におかれても神様を賛美し、人を愛する者に変えられたのです。誰が彼を変えられたのでしょうか。神様です。「この降られた方ご自身」とありますが、文脈を見ればキリストであり、そしてもう一人御聖霊であると考えられます。

 キリストはもう一人別の助け主を遣わすと約束されました。御聖霊が降られ、ペンテコステの日弟子たちは満たされキリストを証ししたのです。

 神様は教会を建てるために 5人の人を立てられました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。使徒と預言者は現在いません。聖書66巻が完成し、聖書が神の言葉を表す者となっています。 5人に共通するものは何でしょうか。神の御言葉に奉仕する者です。

 今日も教会は建てられています。それは建物と言うよりも、キリストの体としての共同体、生きた体―すなわち私たち自身が神の宮であり教会なのです。

 私たちはキリストの愛によって結び合わされ、それぞれにキリストの賜物が与えられていますが、何よりも神の恵みに満たされ、喜びと感謝をもってキリストに仕える者とさせていただきましょう。

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