2021年7/25 第四主日
伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】 マタイの福音書 7章24~25節
- :24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に
自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした
岩の上に土台が据えられていたからです。
メッセージ概要
梅雨が明けて猛暑が続いていますが、今月3日静岡県熱海市で土石流が発生し亡くなられた方も多く、現在も捜索活動が続いています。ニュースでも映っていましたが消防士の方がそれぞれの所に知らせる途中、土石流が押し寄せ、一人の方は間一髪で建物に入り難を逃れました。もしその建物も流されていたら更に大きな被害となっていたと思います。
イエス・キリストは土台をどこに据えて家を建てるか、というところから私たちの人生の土台は何かを語っておられます。
1,災いに遭う可能性
私たちはこの世で生きている限り、災いは全くないとは言え ません。どんなところで事故に遭うのか、また困難に直面するかはわかりません。また避けようのないことも起こってくるのです。ですから、イエス様は「洪水が押し寄せ」という言葉を使われています。2000年前のイスラエルでも洪水が起こったことが想像できます。イスラエルの気候は雨期と乾期にわかれており、もちろん家を建てるときは雨の降らないときに建てます。そのとき、砂地で家を建てる人と岩の所に家を建てる人がいました。もちろん砂地で建てる方が建てやすいのです。岩に穴を開け土台を据えることは重労働でした。余分に費用も労力もかかります。できるなら砂地で建てる方が楽で、そうしたいです。
ところが雨期になって雨が降り続き、洪水が発生することがありました。乾期の時には見えなかった川が、雨が降り続くと現れ出てくるのです。ワジとよばれているものです。そして時に大洪水となり家も押し流されることがあったのです。ところが、しっかりした岩場に建てられた家は流されませんでした。被害も許容できる範囲で収まることができたのです。もちろん砂地に建てられた家は流され被害も甚大になるのです。
2,岩の上に建てることの意味
この話は、一般の人にもわかりやすいようにイエス様は話されました。たとえを使って話すのは、信仰を持っていなくても理解出来るようにと配慮 しての こと です。ですから、洪水の話を聞いて岩の上に家を建てる方が遙かに安全で、将来も大丈夫だ。どんな災いがきても流されていかないと人々は理解できたと思います。
問題は、イエス様のことばを聞いて、それを行うか否かにあります。聞いても行わなかったら、砂地に家を建てるような生き方です。しかし、言われたことを実践していくなら、まさに堅い岩の上に家を建てる。それこそ自分の人生をしっかりした土台の上に立てて、流されないようにできるのです。
ただ聞くだけで実行しなければ意味はありません。たとえば「あなたの隣人を愛しなさい」と聞いても実行しなければ 、 分 らないことがあります。簡単なことですが容易ではありません。なかなか人を愛することが難しいとわかります。それを実践して解るのは、自分に愛が足りないことが解るのです。自分自身がしっかりしたものではないことが解るのです。ですから、岩の上に自分を立てなければならないのです。
3,岩とはイエス・キリストのこと
家が自分の人生、自分自身であるとすれば、岩は何でしょうか。お金でしょうか。名誉でしょうか。権 力でしょうか。それらのものは私たちにいのちを保証してはくれません。
実は岩はイエス・キリストです。キリストこそが、あらゆる災い、苦しみ困難に耐えさせ、復興していく原動力となってくださる方であり、私たちの力です。
「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と約束されました。その力がキリストにあり、私たちが信じるなら、その力に与って苦難を耐え忍ぶことができ、困難の中から復興していくことができるのです。ですから、たとえ洪水が押し寄せ風が吹いても家は倒れないのです。私たちも災 いがきても大丈夫です。なぜなら、岩であるイエス・キリストが私たちを支えてくださり、キリストが立たせてくださるからです。