2021年4/25 第四主日伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
音声メッセージです。
- 【聖書】ローマ人への手紙 第6章23節
- :23
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
メッセージ概要
今日からまた「緊急事態宣言」が出されました。特に変異株のウイルス感染が増えています。気をつけなければなりません。このような中にあって、私たちは改めていのちの大切さ、そして、生きることの素晴らしさを認識する必要があります。
今日の聖書箇所には、死といのちのことが出ています。私たちは今、生きています。しかし必ず死ぬときが来ます。果たして死んだ先、私たちはどうなるのか、どこに行くのか考えなければなりません。そして聖書には死に対する解決、私たちが永遠に生きる約束がここに示されているのです。
1,なぜ人間は死ぬのか
私たちは生きるために、まず考えなければならないのは「なぜ死ぬのか」と言うことです。
病気でも原因が分かれば直すことが出来ます。聖書には「罪の報酬は死です」とあります。罪が原因で人間は死ななければならない、と言うことなのです。しかし、分かっているようで分からないのが、この聖書がいうところの「罪」ではないかと思います。
聖書に出てくる罪は、この世の犯罪の事ではありません。別の言い方をするなら、人に対しての罪というよりも、神様に対しての「罪」、といえると思います。それでもピン来ないかもしれません。でも、悪いことをしたら、心に罪悪感を覚えるでしょう。人の悪口を言っていて、その人に会ったら気まずい思いをするのではないでしょうか。言わば「心の罪」です。心の中で悪いことを考える、そしてそれを実行して悪を行う。しなくても、心の中で考えているだけでも、それは神様に対して「罪」を犯していることになってしまいます。
私たちには、真の神様、天地を造られた唯一の神様がおられることは、分かりにくいかもしれません。でも、 心の中で悪いことを考えていれば、ドキドキ することがあるでしょうし、秘密にしていても、バレてしまうかと心配し、悩むことになります。
まさにアダムとエバはそうでした。取って食べてはならない木の実を取り、食べて罪を犯したのです。そのために神様から離れ、身を隠したのです。私たちも悪いことをしたら隠そうとします。中には心労のあまり病気になる人もいます。それが罪の報いであり、死に至ってしまうのです。
デンマークの哲学者キルケゴールは「死に至る病」という本を書きました。その中で絶望が死に至る病であると言っています。逆に、絶望に打ち勝つ「希望」を見つければ、私たちは死なない、滅びに向かわなくても良くなるのです。どこに希望を見つけることが出来るのでしょうか。
2,キリストがいのちを与えられる
聖書には「イエスにある永遠のいのち」とあります。
キリストが私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです。
ある集会で説教者が神の愛を話しているとき、 にらむ ように見ていた女学生がいました。後で話 を しても、キリスト教に反対することばかり言ってくるのです。途方に暮れた説教者はお祈りさせて下さいと行って、涙を流しながら祈ったとき、その女学生は目に涙をためて、こんなに祈ってもらったのは初めてですと心を開き、その後イエス様を自分の救い主と信じることが出来ました。
「君は 愛されるために生まれた」という曲が昔教会で流行りました。今も歌われています。それは、 神様が私たちを愛しておられる、そしてイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのも、私たちを愛し、私たちの罪を赦すためであるからです。
だれも罪人のためにいのちを捨てる人はありません。しかしキリストは私たちの救いのために、十字架にかかり身代わりとなって罪の代価を払って下さったのです。そしてその保証として、死の中からよみがえられました。復活されたのです。
一人の青年は、復活が信じられない十字架の意味が分からないと言っていまし た。しかし、罪という言葉を考えていたときに、ふと自分の罪を思い出しました。それはあるときキセル乗車をした、そのことが思い出されたのです。それが彼の良心をチクチクと刺しました。ついには駅に行ってお詫びをし、赦されたのです。その足で教会に行き牧師先生と共に祈り「御子イエスの血すべての罪より我らを潔む。」と御言が与えられ十字架によって赦され、新しいいのち―罪が赦されて生きる、 永遠のいのちが与えられたことを感謝したのです。
神様は私たち一人一人に「キリストにある永遠のいのち」を与えて下さいます。