2022年5/29 第五主日
伝道礼拝
ー西本耕一牧師ー
- 【聖書】 ローマ人への手紙 8章 37節
- :37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
メッセージ概要
最近、コロナ感染も少し収まってきている様子ですが、ニュースを見ると原因不明の子どもの急性肝炎や「サル痘」など初めて聞く病気の感染が出てきます。
身体の健康も大切ですが、心の健康も大事ではないでしょうか。
大金が振り込まれて使ったという事件が起こりましたが、もし心が強かったら弱さや欲に打ち勝っていたら事件にはならなかったと思います。
この世にあっては、苦難や苦悩、迫害がある、と聖書は言っています。そしてなんと「屠られる羊と見なされている」と聖書にあります。
それでは私たちに生きる希望はあるのでしょうか。それは 37節に出てくる「しかし」ということばです。これはしばしば、「逆転劇のしかし」と言われることばです。なぜなら、そのような苦難や苦悩があったとしても、私たちは「圧倒的勝利者」であると聖書は言っているのです。
ギリギリで勝てた、辛勝したのではありません。圧倒的な勝利です。勝ち得てあまりある勝利です。野球で言うなら 100対 0のようなものです。圧倒される勝利です。
なぜそのような勝利が得られるでしょうか。自分自身は弱くても、そんな勝利を得ることができるのでしょうか。聖書はできると言っています。
それは自分の力ではありません。「私たちを愛して下さった方によって」と言われています。だれが私たちを愛して下さるのでしょうか。それはキリストです。キリストが私たちを愛して下さる。その方によって私たちは圧倒的勝利者になれるのです。
それではどうすれば、キリストを知ることができるでしょうか。キリストによって自分はどのように勝利者にしてもらうことが可能でしょうか。
聖書を読むことです。聖書を読むことによってキリストを知ることができます。教会の礼拝は、聖書のことばが中心です。キリストのことを話します。信仰は聞くことによって始まると聖書にありますが、まさに今がキリストを知るときです。キリストのことについては、福音書に記されてあります。キリストの生涯、とりわけ十字架と復活に大きな意味があります。
私たちを苦しみから救ってくれるのは、キリストの十字架です。ある人は、苦しみに遭うことは意味があると言いました。
一つは、信じようとする心が強くなる。もう信じる以外にはない。神に頼るようになる。そのことによって信仰は強められるのです。
もう一つは、苦難の中に神の栄光が現される。行き詰まったところに、神様の御業が現される、奇跡が起こる。聖書の中にも、目の見えない人が見えるようになったり、足の不自由な人が歩けるようになったり、病気の人が癒やされた話しが多くあります。それらはまさに神の御業です。そして、苦難を通して私たちは、救われるのです。もうどうしようもできない、自分は愚かでだめな人間だ、だからこそ救われるのです。救われること以外には希望はありません。
聖書に出てくる、「愛」は私たちに値打ちがあるから愛されるのではありません。全く価値がない者をも愛するのが神の愛です。そして十字架は、神の愛の表れです。
何の価値もない滅び行く者のためにキリストは身代わりとなり、いのちを捨てられた、これよりも大きな愛はないのです。
そして、死の中からよみがえられた、その復活のいのちによって私たちは圧倒的勝利者になるのです。私たちの受けるべき死は、キリストの復活に飲み込まれてしまい、圧倒的な勝利者となるのです。
今、会堂は LEDの照明に変えられ大変明るくなりました。でも電気が来ないと明るくなりません。電車でもパンタグラフにつながって電気で走っているのです。力が必要です。
私たちが生きる原動力は何でしょうか。十字架の力です。全ての罪過ちが赦されて、神の子とされる。愛の力が必要です。そして復活の力、死をも飲み込んでしまい、新しいいのちに生きる復活の力。
神様は私たちに、キリストの十字架によって愛の力。キリストの復活によっていのちの力、永遠のいのちを与えて下さるのです。