「神の義に生かされる」

2023年 11/5
第一主日 聖餐礼拝
ー西本耕一牧師ー

 

 


 

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【聖書】
ペテロの手紙 第一 2章24節

2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

 

メッセージ概要

 

 ペテロの手紙は、1世紀後半60年代に書かれたと言われています。宛先は小アジア―トルコに離散した異邦人のクリスチャンでした。彼らは信仰の迫害に遭っていたと思います。彼らを励ますためにペテロはこの手紙を書きました。

 キリスト教のシンボルは十字架です。ここにも十字架が出てきます。私たちの救いの根拠はこの十字架にあります。

1,自ら進んで

 イエス・キリストが十字架に架けられたのは、強制でもなければ自動的なものでもありません。「自ら」自分から、進んで十字架に架けられたのです。

 そこには目的がありました。それは私たちを罪の滅びから永遠の滅びから救うためであったのです。その目的のために、喜んで十字架にかかって下さり、いのちを捨てて下さったのです。

 キリストは「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と言われました。

 確かに十字架を負うことは苦しいことです。しかし十字架は一人で負うものではないのです。
 実は、イエス様が共に負って下さるのです。それは、「私のくびきは負いやすく、荷は軽いのです」と言われたことから分かります。

 自分で負おうとするからしんどいのです。嫌になるのです。でも、イエス様が一緒に負って下さる。イエス様が共にいて励まして下さる。しかも、イエス様の方がほとんど負って下さる。そう信じるなら荷は軽くなるのです。

2,罪を完全に赦すため

 十字架の目的は罪の赦しです。

 私たちは自分で自分の罪を赦すことができるでしょうか。できないのです。罪を隠すことはできます。分からないようにすることはできます。しかし、自分で自分の罪を赦す。罪から解放されることはできないのです。

 唯一できるのはキリストです。罪を犯されなかった方が、身代わりとなって私たちの罪の代償、すなわちご自分のいのちを捨てて、私たちの罪を赦して下さったのです。

 それは私たちが罪から離れるためでした。罪を犯したらこのようになるのだと身代わりに十字架の裁きを受けてくださったのです。十字架の姿を見てそのようになりたいとは思いません。罪から離れ、罪に背を向け、そして神様に喜ばれる正しい生き方、すなわち義に生きるために、自らが十字架に死んで罪を赦して下さったのです。

3,癒やされるために

 そしてもう一つの大きいことは、癒やされるためです。

 キリストの十字架には力があります。私たちは癒やされなければなりません。色々な悩み不安そして罪の苦しみから解き放たれて自由になり、その傷が癒やされることです。

 江戸時代に日本の神道を研究していた本居宣長は、床の間の柱に釘を打ったそうです。それは自分が悪いことをしたら釘を打つ。そしてよいことをしたら釘を抜く。彼は精進してよいことをするように励みました。釘を打ったり抜いたり、続けていきました。精進の甲斐あって、全部釘を抜くことができたそうです。しかし、その時にはっとしました。なぜなら、釘は全部抜けたのでしたが、床柱は釘跡だらけになっていたのです。

 イエス・キリストは私たちを癒やして下さる方です。人の力で消せない心の傷をも癒やされる方です。私たちの代わりに身代わりとなって、釘打たれた方です。そして私たちの罪を赦し、罪の跡形もなくなるように新しくして下さるのです。
「キリストにあるなら、その人は新しく造られた者、すべてが新しくなったのです。」
(Ⅱコリント5:17)

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