「一粒の麦」

2023年 10/1
第一主日 主日礼拝
ー西本耕一牧師

 

 


 

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【聖書】
ヨハネの福音書 12章24~26節
:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。

 

メッセージ概要

 

 ヨハネ12 章には、イエス様が十字架にかけられる前のことが記されてあります。
過越の祭ときであり、多くの人が集まり、ラザロをよみがえらされたイエス様を見ようと集まってきたのです。中には外国人もいました。

 その時にイエス様は「一粒の麦」の話をされました。

1,一粒の麦の目的

 一粒の麦の目的はただ一つ、豊かな実を結ぶことです。それ以外に種の目的はありません。見栄えが良いから、かっこいいからと言って種を取っておく農家はありません。見栄えはどうでも良いのです。豊かに実を結ぶことが大事です。

 イエス様は何を言いたかったのか。それは「真のいのち」のことです。なぜラザロを死の中からよみがえらされたのか。それは永遠のいのちがあることを実証されたのです。

 私たちは体をもって生まれました。この世に存在しています。しかしそれは永遠ではありません。やがては肉体のいのちはつきてしまうのです。

 しかし、神様は私たちに肉体のいのちとは別に永遠のいのちを与えて下さいます。それは目には見えません。しかしそのいのちが与えられると、死を恐れません。克服して行くことができます。神様は私たちを朽ちないものによみがえらせ、死は復活のいのち、勝利に飲み込まれてしまったのです(Ⅰコリント15:42,54) 。

 

2,豊かに実を結ぶために

 豊かに実を結ぶために、しなければならないことがあります。それは「死ぬ」ということです。一粒の麦は、一粒の麦の種として存在していたら、実を結ぶことはありません。一粒のままです。実を結ぶためにはどうしたらよいのか。それは、畑に蒔くことです。地に落ちて死ぬ、すなわち、地面にまかれ殻が破れ芽が出て成長して行くのです。

 秋に麦が蒔かれると「麦踏み」と言うのがあります。それによって苗が成長するそうです。

 イエス様は真に、一粒の麦となられました。天の位を捨て、私たちと同じ人となってこの世に降り、あらゆる辛酸をなめられ、ついには、ののしり、嘲りを受けられ、むち打たれ十字架に架けられたのです。しかしその十字架によって私たちはあらゆる罪を赦され、またすべての悩み苦しみ病を癒やされるのです。私たちはキリストの打たれた傷、すなわち十字架によって癒やされ救われるのです (イザヤ53:5) 。

 

3,わたしについてきなさい。

 キリストは一粒の麦の先陣となられました。道を開いて下さいました。そして「わたしについてきなさい」と招いておられます。

 但しキリストについていくことは「自分を捨て自分の十字架を負って」キリストに従うことです (ルカ9:23) 。自分の十字架を負うとは、自分に死ぬことです。自分を愛して自分を捨てないなら一粒のままです。しかし死ぬなら豊かな実を結びます。種は殻があります。堅い殻です。自分に死ぬとはその堅い殻が破られることです。自分の自我が砕かれることです。そのことによって新しいいのちが芽生えるのです。

 キリストによって新生する。古いものが過ぎ去って新しい生き方、この世にも人にもとらわれないで、神様に愛されて生きる生き方ができるのです。自分を愛して自分を守ろうとすると、永遠のいのちを得ることができません。しかし、自分のいのちを憎むもの、自分のプライドを捨てて、イエス様に従う者は永遠のいのちを得ることができます。

 それどころか、イエス様は「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじる」と言われます。父なる神様はイエス様がバプテスマを受けられたとき「これはわたしの愛する子」と言われました。同じように私たちも愛され用いられるのです。

 パウロはイエス様の愛に応え従いました。彼もまた十字架を負い従ったのです。「私はキリスト共に十字架につけられた。生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と告白し、喜んでキリストに従っていったのです
(ガラテヤ2:19,20) 。

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